競走馬、種牡馬
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日本の併合時代は馬匹資源の供給と馬政財源の拡大を目的に、李王家が所有していた蘭谷牧場を中心に馬産が行われ、日本からトクマサ、ハクシヨウなどが繁殖用に送り込まれた。しかし終戦後の混乱でその行方、最期は明らかではない。戦後は朝鮮戦争の影響、長年日本人主導で行われてきた競馬界への民族的反発などで韓国競馬は低迷。それらの事情もあり、1965年に日韓の国交が回復してもなお、長い間目立った交流は行われなかった。 日韓競馬界が再び交流するようになったのは1980年代に入ってからである。まず、1984年に日本ダービー馬コーネルランサーが、当時の韓国大統領で同年に国家元首として戦後初めて日本を公式訪問した、全斗煥に寄贈された。1990年にはプレストウコウ、ラッキールーラ、カツトップエース、ヤマノスキーが種牡馬として韓国に寄贈された。3頭の活動期間は短かったが、ラッキールーラが3年連続で内国産年度代表馬となった名牝タンディチェイルを出している。1992年には韓国で「JRAトロフィー」が、1993年には日本で「韓国馬事会杯」が交換競走として施行されるようになった。 1990年代以降は日本から競走馬、種牡馬の輸入が行われるようになった。ただし、国内の馬産を保護するため、競走馬輸入に対しては牡馬に限り2万ドルの購買価格上限が設けられている。牝馬にはかつて7万ドルの上限が設けられていたが、2012年から撤廃されている。ピーク時は100頭近い数が日本から輸入されていたが、2010年はわずか9頭にまで落ち込んでいる。逆に韓国から日本に競走馬、繁殖馬が輸出されたケースは、アメリカでG1を7勝したゲームオンデュードが2011年に活躍が知られるようになった際、母のワールドリープレジャーがすでに韓国へ輸出されていたことが明らかになり、同年11月に白老ファームによって日本に輸入されたのが唯一の例である。また、ワールドリープレジャーは輸入時にアドマイヤドンを受胎しており、翌2012年に生まれた産駒は史上初の韓国からの持ち込み馬となった。 日本からの種牡馬の導入は、民間牧場の輸入が解禁された2000年以降活発になり、最初に導入されたスルーオグリーンがコリアンダービー勝ち馬を出している。以後もビワシンセイキは産駒が韓国G1の大統領杯を制して2010年のリーディングサイアーランキングで8位になり、メイセイオペラも産駒が韓国クラシック一冠目のKRAカップマイルを制するといった活躍が伝えられている。また、イングランディーレのようにG1勝ち馬ながら日本での種牡馬生活を経ずに韓国で種牡馬入りするケースも出ている。ただし、ダート競馬を専門とすることから、ダート主体のアメリカからの種牡馬導入がそれ以上に活発であり、リーディングサイアーランキングは元アメリカ繋養の種牡馬に上位をほぼ独占されている。また、KRAの輸入種牡馬はすべて無料で種付けでき、KRAから生産者協会に寄贈された種牡馬も安価に利用できる。こういった事情から、有力牧場が導入した一部のケース以外の多くの種牡馬は、個人牧場がKRA所有の種牡馬に種付けできなかった際の抑えとして輸入されていて、そのために種付け頭数が集まらないのが現状である。 2013年9月1日には韓国馬事会と大井競馬場による交流競走が行われ、大井所属馬3頭がソウル競馬場にて出走した。この競走は韓国初の国際競走であるとともに、日本調教馬初の韓国遠征でもあった。2015年6月7日には、日本中央競馬会(JRA)所属馬としては初めてエスメラルディーナ(美浦・斎藤誠厩舎)が韓国に遠征し、ソウル競馬場で行われたトゥクソムカップに出走し勝利、JRA所属馬が初出走初勝利を記録した。
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