穴切遊廓の成立と衰退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/03 13:50 UTC 版)
上府中大火により焼失した新柳遊廓は移転することとなるが、当遊廓は甲府市街地の北方(現在の山梨大学、国立甲府病院)を塞ぐような位置にあり、甲府の発展を妨げるものとして、大火以前より県により移転が促されていたことから、比較的スムーズに移転が行われた。新たな遊廓設置場所は甲府市街地の西、相川左岸の通称穴切田圃(現在の甲府市宝1丁目)と呼ばれる水田一帯であった。大火のあった明治40年の年末には22楼の遊廓が全て移転を完了し、穴切遊廓(別名、穴切新地)が成立した。 公に認められた山梨県の遊廓は上野原にあった僅か2軒の小規模な関山遊廓と甲府の穴切遊廓の2箇所のみであり、村行彰著『日本遊里史』(1929年)の巻末付録として掲載されている『日本全国遊廓一覧』によれば、穴切遊廓の貸座敷数(軒数)は21軒、娼妓数201名を数えた。 また、別の昭和初期の記録によると娼妓数は280名を数えており、これは遊廓を擁する他の同規模地方都市と比較すると突出しており 、甲信地方では最大級の遊廓であった。 しかし、1945年(昭和20年)7月の甲府空襲により穴切遊廓は全焼し、翌1946年(昭和21年)にGHQの指令により公娼制度が廃止されると、穴切遊廓のあった一帯は、カフェーや料亭などに看板を変えた、いわゆる「赤線」地域として存続したが、1956年(昭和31年)の売春防止法の成立、1958年(昭和33年)の同法施行により、穴切遊廓は完全に消滅した。 往時を偲ばせるものは、古い建物の外壁に僅かに残る公安委員会によるカフェー許認可プレートのみで、2020年現在の穴切地区はマンションなどが建つ普遍的な住宅街となっている。 山梨県公安委員会による、カフェー許認可プレート 2011年8月の穴切地区
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