稲尾和久との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 12:58 UTC 版)
ロッテ時代の監督だった稲尾和久を師と仰いでいる。現役時代、稲尾監督就任会見のあと、新監督以下、首脳陣が飲みに繰り出そうとしたとき「私も行っていいですか」とついて行き、店に着くなり、落合は稲尾に「監督は『管理野球』ですか。それとも、選手に任せるんですか」と尋ねた。激怒されてもおかしくないところ、稲尾に「残念ながら、俺は”西鉄”ライオンズで育った人間だから、管理されたことがないんだよ。だから俺も管理はしないよ」と答えられ安堵する。同シーズン前半戦打率2割そこそこの打率だった落合の打順降格を提案した複数のコーチに対し、稲尾は頭を下げてまで4番起用を続け、結果落合はシーズン後半戦には4割を超えるような打率を残した。室内練習場で長時間にわたるバッティング練習を終えたところ、落合の指が感覚を失い、バットから離れなくなったが、物陰から姿を現し、指をゆっくりとバットから離してあげた人物が稲尾だった。落合の稲尾への私淑はこの時がきっかけだという。 1985年、開幕前のキャンプにおいて、バットを一切振りたくないという落合の要望に打撃コーチは手を焼いたが、稲尾はあっさりと落合の要望を認め、落合はその通りキャンプ中はおろかオープン戦でも一切バットを振らず、走り込みを嫌う落合は守備練習のみで足腰を鍛え、同年は打率・367、52本塁打、146打点の圧倒的な成績で三冠王を獲得した。当時のチームメイト愛甲猛によれば「あの前後のオチさんは、打席に立つ姿がものすごく大きく見えました。ベンチで隣に座る稲尾さんが『オチ、そろそろ頼むわ』というと、『わかりました』と立ち上がり、一発打って帰ってくる。落ち着き払っていた」という。 1986年は123試合の出場で50本塁打していたが、ブーマーが打率.355と迫っていたことによる打率維持と若手に実線を積ませるために、稲尾の判断で欠場となった。これについて自伝では「来年でも日本記録の55本塁打を狙えると思ったから」としている。 稲尾との関係はグラウンド外にも及んだ。落合夫妻と交流のある女優・冨士眞奈美がある日落合邸を訪ねたところ、テーブルで稲尾と落合が鍋をつついており、落合がせっせと鍋奉行をつとめ、終いには稲尾がソファにゴロリと横になり寝てしまったが、その様子を落合が愉快そうに眺めているのを見て「『ああ、本当に稲尾さんのことが大好きなんだなぁ』と思いました」と述べている。 落合が正力松太郎賞を受賞した2007年11月13日は奇しくも稲尾の命日でもあり、受賞後の会見で稲尾について「監督と選手の立場を超えて野球を語り合った。教示された打者には分からない投手心理は私の財産」との旨のコメントを残している。 落合は「7人の監督に仕えたが、野球を教わったのは山内(一弘)さんと稲尾さんだけ」と振り返っている。
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