神・竈とは? わかりやすく解説

神竈

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/30 11:34 UTC 版)

御釜神社」の記事における「神竈」の解説

御釜神社には鹽竈神社神器とされる4口の竈が安置され、これらは「神竈(しんかま、神釜)」または「御釜(おかま)」と称される。『別当法蓮寺記』によれば、「塩竈」の地名はこの神器由来するという。竈の中に張られは、干ばつ時に絶えることがないといわれる。 『鹽竈社縁記』によれば武甕槌命経津主神東北平定の際に、両神先導した塩土老翁神がこの地に留まり現地人々製塩教えたとし、その竈が今も残るという。『別当法蓮寺記』では、4口のうち「御臺の竈」は神が愛でたものと伝える。 『塩竈町留書によれば、4口の竈の大きさそれぞれ次の通り御臺の竈 - 深さ1寸6分(48.5mm)、廻り1丈4尺6寸(4,423.8mm)、差渡4尺(1,212mm)、厚1寸3分(39.4mm)。 西の方 - 深さ6寸(181.8mm)、廻り1丈5尺(4,545mm)、差渡4尺7寸5分(1,439.2mm)、厚2寸(60.6mm) 。 北の方 - 深さ6寸(181.8mm)、廻り1丈5尺6寸(4,726.8mm)、差渡4尺7寸5分(1,439.2mm)、厚2寸(60.6mm)。 東の方 御宮脇 - 深さ5分(15.1mm)、廻り1丈5尺(4,545mm)、差渡4尺7寸5分(1,439.2mm)、厚2寸(60.6mm)。 『別当法蓮寺記』では、往古は7口の竈が存在した伝える。それによれば、「赤眉」という者が3口を盗んだが、神の怒りにあって遠く持ち去ることができなかった。そのため3口は、当地野田松島湾海中加美郡四釜にそれぞれ1口ずつ残されたという。当地野田にあるとする1口は、田の土中にあるとし、その地を「釜田」と伝える(現在の宮城県塩竈市野田JR東北本線塩竈陸橋下あたりといわれる)。同地では耕すものが田に不浄入れると祟りがあるとされ、収穫ののちは初穂持ってまず鹽竈神社供えるのを慣わしとする。松島湾海中にある1口は御水替の際に海水を汲む釜ヶ淵沈んでいるとする。最後の1口は加美郡四釜(現在の宮城県加美郡色麻町)にあるという。同地は昔、坂上田村麻呂東征の際に鹽竈神社勧請し戦勝神徳崇めた地でもあるとする。昔あった竈の数には異説があり、『鹽社由来追考』では鹽竈神社14末社と同じ数の14口があったとする説、『奥羽観蹟聞老志』では6口あったとする説を紹介する能因法師歌枕には、鹽竈神社の竈は坂上田村麻呂東征時に58,000人の兵糧炊いた竈であるとの記述があるが、『鹽社由来追考』では鹽竈神社そのような証拠は無いため誤説とする。 これら神竈に関しては、前述のように竈内の水の変色でト占が行われた。『塩竈町留書によれば寛永13年1636年2月上旬から変色があった際は、伊達政宗病気になり、祈祷行なった寛永13年5月24日亡くなったという。その後、竈のは元の澄んだ色に戻ったとされる。また同文書では、正保2年1645年)、万治元年1658年)、万治3年1660年)、寛文10年1670年)から寛文10年11年1671年)、延宝3年1675年)、天和元年1681年)、貞享元年1684年)、貞享2年1685年)にも竈の水の変色があったという。 なお兵庫県高砂市にある生石神社では、生石神社石の宝殿霧島神宮鹿児島県霧島市)の天逆鉾、そして御釜神社の神竈をして日本三奇と称する

※この「神竈」の解説は、「御釜神社」の解説の一部です。
「神竈」を含む「御釜神社」の記事については、「御釜神社」の概要を参照ください。

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