石炭の発見と採掘の開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 03:11 UTC 版)
大嶺炭田の発見経緯ははっきりとしていない。明治以前、現在の美祢市周辺に黒い土があることを不思議に思っていた人たちも居たが、それが石炭として使用できるとは考えもしなかったと伝えられている。大嶺炭田が炭田として認知された時期については諸説ある。早い説では1877年(明治10年)という説があるが、根拠がはっきりしない。大正初年に編纂された地元美祢郡大嶺村の治績状況では1884年(明治17年)頃の発見としており、また1904年(明治37年)の地元新聞「防長新聞」の紙上では、「今から18〜19年前の発見」としており、そうなると1885年(明治18年)から1886年(明治19年)頃の発見となる。 この頃、北九州や宇部からやって来る行商人が、郷里の石炭に似ているのでもしや石炭ではないかと思い火をつけてみたところ、無煙炭である大嶺炭田の石炭は燃えるには燃えるものの煙が出ない。これは北九州や宇部の行商人にとって見知っている石炭とは異なるため、結局手つかずとなってしまったとの逸話も伝わっている 1887年(明治20年)頃になると大嶺炭田の石炭の利用が始まった。この時点で大嶺炭田の発見とする説もある。大嶺炭田の石炭はまず、美祢郡で生産されるようになった石灰を焼くために使用されたと伝えられている。美祢郡でいつ頃から石灰の生産が開始されたかははっきりとしないが、1884年(明治18年)の記録ではすでに110か所で石灰を生産していたとの記録が残っており、肥料用などで石灰の需要が高まりつつあったのを受けて、1887年(明治20年)頃には美祢郡では石灰の生産が盛んになってきていた。 石灰の原料である石灰石を焼いて石灰とするために、美祢郡では薪や木炭を使用していた。これを大嶺炭田の石炭で焼いてみると成績が良かったため、美祢郡内では地元で産出される石炭を石灰の焼成に使用することが広まった。石灰焼きに大嶺炭田の無煙炭を用いるようになると石灰の生産も増加していった。こうして明治20年代になると石灰焼きに使用する石炭の採掘が広まりだした。続いて1894年(明治27年)に開戦した日清戦争時には銅の需要が増大し、これを受けて近隣の於福銅山、長登銅山でも銅の製錬に大嶺炭田の無煙炭を使用するようになった。しかし当時はまだ大嶺炭田の石炭の用途はほとんどが石灰の焼成用に限られており、やがて生産過剰に陥って炭価が下落し、炭層が薄く炭質も悪い麦川、平原、奥畑といった炭鉱は休山に追い込まれ、桃ノ木、荒川で採炭が継続された。 大嶺炭田黎明期の石炭採掘はタヌキ掘りと呼ばれる方法で行われた。タヌキ掘りとは石炭の露頭から炭層に沿って人がツルハシで穴を掘るように石炭を採掘していくやり方のことで、山腹に穴を開けて掘っていく形からタヌキ堀りと名付けられた。坑道は幅約1.2メートル、長さは約90メートルほどであったといい、松の丸太で補強する程度であった、働く坑夫は2名ほどでもちろん機械は使用せず、採掘した石炭は籠で運んでいた。掘り出した石炭は車力が輸送したというが、大嶺炭田周辺は山道で道が悪く、多くの石炭を運ぶのは困難であった。なお、1894年(明治27年)頃の大嶺炭田の石炭生産量は約1000トンとの推計がある。
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