相模原町から市制施行へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 13:45 UTC 版)
軍都計画の進展とともに、軍の強力な後押しもあって相模原一帯を合併して一大市を建設する気運が盛り上がった。その過程では、隣接する東京府町田町との合併も話題に上った。陸軍では、上鶴間の原町田陸軍病院(のち相模原陸軍病院と改称)や淵野辺の原町田憲兵隊など、相模原を原町田と一括りにすることが多かった。だが府県境を越えた合併は当時でも困難なことが多く、高座郡北部の9町村(相原村、上溝町、大野村、大沢村、田名村、麻溝村、新磯村、座間町、大和村)が合併の対象となった。 対象地域内では軍都計画地域を中心とする北部(相原・上溝・大沢・田名)と、陸軍士官学校を中心とする南部(麻溝・新磯・座間・大和)の間で意見が対立し、特に座間町と大和村では合併反対の意見が強かった。北部5町村と南部4町村による別個の合併も俎上に上ったが、北部の淵野辺地区が軍都計画地域に属する一方で、南部の上鶴間地区に士官学校や陸軍通信学校、陸軍病院などを抱える大野村(個別合併案では北部5町村に含まれた)は村が分断されることを恐れて9町村での合併を強く望んだ。軍の強い要請によって座間町は9町村合併の容認に傾いたが、大和村では意見の集約が間に合わず合併から離脱し、大和村を除いた8町村による合併となった。 合併後の新市名として「相武台市」「相武市」「相模市」「相模原市」などが挙がった。このうち1937年(昭和12年)に移転してきた陸軍士官学校にちなむ「相武台」は、士官学校移転に際して座間村(当時)が新磯村との合併を持ちかけた際、「座間町」への吸収となることを恐れた新磯村側が提案した呼称でもある。なおこの合併は両村の意見が合わず、座間村が単独で町制を施行した。「相武台」は昭和天皇から士官学校に下賜された呼称であるとして陸軍士官学校が反対し、最終的に選ばれたのが「相模原市」であった。 市とするにあたっては合併当時の対象地域に市街地がほとんど形成されていないことから内務省の承認が得られず、将来の発展による市制施行を期待しながら、1941年(昭和16年)4月29日に8町村(相原村、麻溝村、新磯村、大沢村、大野村、上溝町、座間町、田名村)の新設合併により、高座郡相模原町が誕生した。町役場を淵野辺に置き、人口3万9,718、面積107.99km2で、合併当時は「全国一面積の広い町」であった。同年9月1日、町役場を上溝(旧上溝町役場)に移転した。 戦後に軍の圧力がなくなると、当初から合併に消極的であった旧座間町では離脱の動きが強まり、1948年(昭和23年)9月1日に旧座間町の区域が分立して座間町が再置された(これにより面積90.77km2となった)。 1954年(昭和29年)4月29日に相模原町役場を清兵衛新田(現在地)に移転。旧座間町を除いた残りの区域で「昭和の大合併」の最中の1954年(昭和29年)11月20日に市制を施行して相模原市となった。すでに大規模合併を終えていた相模原市では「昭和の大合併」による市域拡張は行われていない。
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