白帳の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 08:32 UTC 版)
「ジョチ・ウルスの両翼体制」の記事における「白帳の歴史」の解説
詳細は「バトゥ・ウルス」を参照 バトゥ・ウルス=白帳の歴史は、他のモンゴル系勢力よりもモスクワ=ロシア、リトアニアに代表されるヨーロッパ諸国と密接な関係を有していたことが特徴として挙げられる。 ジョチの死後、その後継者となったバトゥは1230年代から1240年代にかけてヨーロッパ遠征を行い、現ロシア南部の広大な草原地帯をバトゥ・ウルスの支配下に組み込み、またルーシ諸公国を間接支配下に置いた。1280年代から1290年代にかけてはドニエブル川方面に領地を持つ「右翼の」ノガイが大きな勢力を有し、バトゥ・ウルスの君主選定に携わるほどの権勢を有していたが、トクタ・ハンとの対立の末に年に没落した。ノガイの没落によってジョチ・ウルス右翼の再編が行われ、『ムイーン史選』はこの頃、「青帳(実際には白帳)」が成立したとする。 ベルディ・ベク・ハンの治世以後、白帳ではバトゥ家の王統が断絶してしまい、バトゥ・ウルスでは数十人のハンが乱立する「大紛乱(эамятня беликая)」時代に陥った。この頃、傀儡ハンを擁立するキヤト氏のママイとシバン家が勢力を拡大し、東方の「青帳」君主オロス・ハンと争った。1380年代にはトクタミシュによってジョチ・ウルスが再統一されたが、1390年代には早くもジョチ・ウルスの統一は瓦解し、バトゥ・ウルスは諸勢力が乱立する混乱した時代に逆戻りした。 この頃台頭してきたのはマングト部のエディゲで、エディゲはかつてのママイのようにかわるがわる傀儡ハンを擁立し、トクタミシュの遺児たちと争った。1419年に両者が共倒れした間隙をついて即位したのがトクタミシュの近縁に当たる大ムハンマドであったが、大ムハンマドにはもはや白帳全体を支配する実力はなく、大ムハンマドのように首都サライ周辺しか支配することができなくなったバトゥ・ウルス宗主の勢力は「大オルダ」と呼ばれる。 大ムハンマドは1437年に小ムハンマドに敗れて北遷し、カザンを首都とするカザン・ハン国を建国し、その息子の一人カースィムはモスクワの傀儡国家たるカシモフ・ハン国を建国した。大ムハンマドを打倒して「大オルダ」君主となった小ムハンマドであったが、やはり白帳全体を掌握することはできず、その子孫の一派は「アストラハン・ハン国」と呼ばれた。また、同時期にクリミア地方では上記の諸勢力に対抗して大ムハンマドの甥にあたるハージー・ギレイが現地の有力諸部族によって推戴され、クリミア・ハン国を形成した。以上のように、白帳は諸ハン国に分裂していったが、このような「ハン国」という概念はロシア中心史観の影響を強く受けており、「タタール人」自身の歴史観を反映していないと近年指摘されている。 白帳から分裂していった諸ハン国はモスクワ=ロシアによって次々と併合され、かつてテュルク系遊牧民が闊歩した草原地帯にもロシア人が次々と進出した。白帳の系譜を継ぐ集団は現在、ウズベキスタンやカザフスタンのように独立国家を形成するには至っていないが、タタールスタン共和国(カザン・ハン国の後身)、クリミア共和国(クリミア・ハン国の後身)といった形で存続している。
※この「白帳の歴史」の解説は、「ジョチ・ウルスの両翼体制」の解説の一部です。
「白帳の歴史」を含む「ジョチ・ウルスの両翼体制」の記事については、「ジョチ・ウルスの両翼体制」の概要を参照ください。
- 白帳の歴史のページへのリンク