町の終焉とその後とは? わかりやすく解説

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町の終焉とその後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 22:04 UTC 版)

パナマ・ビエホとパナマ歴史地区」の記事における「町の終焉とその後」の解説

1671年1月28日、町に侵入したイギリス海賊ヘンリー・モーガン一味は、当時黄金交易にぎわっていたパナマの町に火を放ってパナマ総督が、逃げ失せるために自ら町に火を放ったという説もある)、黄金略奪した海岸線建物ひしめき合うように立地するパナマの町は、ほとんど防御施設を持たなかったために、2月24日まで(現地をみた他の海賊証言では4週間以上)町全体が火に包まれたとの記録残っている。 その後、町は復興されることなく2年後高台以前から移転計画のあった西に約11km離れた現在のカスコ・ビエホ地区に町の機能をすべて移転させた。このときに焼け残った公共建物宗教施設使用されていた石材持ち運びだされ、再利用されている。現在でも見られるものとして、西端位置するメルセー教会正面彫刻施され化粧石、大聖堂正面壁面石材などがある。 町の再建断念された理由としては海賊襲撃致命的であったこともある。しかしそれ以前1621年パナマ襲った地震の被害甚大であり、復旧援助してもらうためにスペイン王室費用負担申し出る書類確認されている。総合的に被害状況関係者にとって予想以上だったとの見解数年来各種論文指摘されている。一方発掘調査確認される植民地時代建物レンガ敷き床面略奪よるもの以上に破損している状況看過されるからも同様の結果推察できるようである。 再建断念されたかつての町は、後に各宗派新しい町での施設再建のために残存建物から建築部材切り出す作業従事するインディヘナたちの居住地となった。危険を伴う作業であったために解体石材下敷きになる事故多発した切り出され部材満潮時に近く海岸から筏に乗せられ運ばれた。一連の工事終了した後は、パナマ建国までのおよそ300年間、省みられる事も無くスペイン人やってくる前の状態に戻っていった。

※この「町の終焉とその後」の解説は、「パナマ・ビエホとパナマ歴史地区」の解説の一部です。
「町の終焉とその後」を含む「パナマ・ビエホとパナマ歴史地区」の記事については、「パナマ・ビエホとパナマ歴史地区」の概要を参照ください。

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