田辺エージェンシー所属後とは? わかりやすく解説

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田辺エージェンシー所属後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 09:51 UTC 版)

タモリ」の記事における「田辺エージェンシー所属後」の解説

1976年4月東京12チャンネルの『空飛ぶモンティ・パイソン』で、正式なメディアデビューを果たす。その後バラエティ番組金曜10時!うわさのチャンネル!!』(日本テレビ系列)にもレギュラー出演が決まるが、この時期は「タモリ専用のコーナー」で密室芸をするという形が取られていた。30歳芸能界入りした為、ビートたけし笑福亭鶴瓶明石家さんまなどは年齢が下だが先輩になる。 当時の芸は、イグアナ形態模写代表される体芸、反知性打ち出した中洲産業大学教授デタラメ言語ハナモゲラ」など、他の芸人とは一線を画しており、テレビ的にはキワモノ芸人存在考えられていた。本人は、イグアナ形態模写称してブリーフ一枚で芸を行う等キワモノとして扱われていた当時を「今で言えば江頭2:50出てきた様なもので、江頭よりもっと気持ち悪がられていた」と評している。 同年10月からは、『オールナイトニッポン』(ニッポン放送)でパーソナリティ務めるようになり、徐々にマニアックな層からの支持集めていく。また、この頃山下洋輔主催全日本冷し中華愛好会参加した1977年には、赤塚不二夫滝大作高平哲郎らと「面白グループ」を結成。週3回上の宴会催し、その成果何らかの方法発表することを目的にした団体であり、まもなく、坂田明内藤陳小松政夫団しん也たこ八郎三上寛研ナオコ柄本明所ジョージアルフィー劇団東京ヴォードヴィルショー一部メンバー)も参加ビートたけし参加しようとしていたが、たけしはタモリ芸風嫌ってすぐに脱退したという。 なお、同年10月29日面白グループ旗揚げ公演として、渋谷公会堂で「輝け!第一回いたいけ祭り」という、タモリ赤塚の「宴会芸」を見せイベントを行う。 1979年には、赤塚企画した映画下落合焼とりムービー』に出演また、1981年には、面白グループ名義で、当時ヒットしていた女子大生2人執筆した書籍ANOANO(アノアノ)』のパロディ本、『SONOSONO(ソノソノ)』を刊行するなどしていた。 1980年からは、芸能生活僅か5年キャリアで、お笑いオーディション番組お笑いスター誕生!!」に、審査員として出演し若手芸人講評していた。同番組出場したとんねるずに対してタモリ赤塚以外の審査員らにはとんねるずの芸は不評だったが、2人のみが「何か良いんじゃないか」と高評価であった後年とんねるず語りそれ以前から尊敬していたがさらに崇拝度合い増した語っている。

※この「田辺エージェンシー所属後」の解説は、「タモリ」の解説の一部です。
「田辺エージェンシー所属後」を含む「タモリ」の記事については、「タモリ」の概要を参照ください。

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