生没年および享年に関する研究史
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「足利家時」の記事における「生没年および享年に関する研究史」の解説
家時の生没年や没年齢(=享年)については諸説ある。 『尊卑分脉』の家時の傍注では「早世廿五才」(享年25)とする(生没年については明記なし)。 『続群書類従』所収「足利系図」では、文保元年(1317年)6月25日に切腹(享年35=逆算すると弘安6年(1283年)生まれ)とする。 「新田足利両家系図」や鑁阿寺位牌では命日を延慶2年(1309年)2月21日とする。 『蠧簡集残編 六』所収「足利系図」(東京大学史料編纂所架蔵謄写本)では、「弘安七年廿五日薨、廿七歳」〔原文ママ〕とする(没月が不明だが、逆算すると正嘉2年(1258年)生まれ)。 「滝山寺縁起」温室番帳に「同(六月)廿五日 足利伊予守源ノ家時、弘安七年逝去、廿五歳、」とあり 、逆算すると文応元年(1260年)生まれ。 まず、臼井信義の説(1969年)に基づいて記述する。嫡男の貞氏については、元弘元年(1331年)9月5日に59歳で亡くなったとする『尊卑分脉』の記載により文永10年(1273年)生まれと分かるので、2の説を採った場合は子の貞氏が親の家時よりも10年も早く生まれたことになって矛盾する。その他、2の没年月日に1の享年25を採用した場合は家時が永仁元年(1293年)生まれ、3の説を採用した場合は建治元年(1275年、享年35の場合)または弘安8年(1285年、享年25の場合)生まれとなるので、いずれでも矛盾する。また、現存する古文書によって家時の活動期間をおおよそ文永6年(1269年)~弘安6年(1283年)と推定できるので、このことも生没年や生きた年代を特定する根拠となる。そして、当主としての文書発行の年齢を考えた時、文永6年の段階で15歳と仮定すると建長7年(1255年)生まれとなるので、享年35とした場合は正応2年(1289年)死去となる。正応2年は将軍・惟康親王が廃されて次の久明親王が鎌倉へ迎えられた年であり、臼井は家時の死(自殺)をこれに関連したものと推測された。 その後の小谷俊彦の説(1977年)では、弘安7年(1284年)7月26日(広橋兼仲の日記『勘仲記』による、後述参照)から史料上での貞氏の初見である永仁2年(1294年)までに家時の死およびそれに伴う当主交代があったと推定された。その間、弘安9年(1286年)3月2日に足利氏の執事・高師氏(高氏、法名:心仏)の奉書が発給されており、その他の執事奉書とは違って足利氏当主の袖判がないが、これは足利氏当主が年少でまだ自身の花押を有していなかったからであると考えられる。従って、家時の没年月日は弘安7年7月26日から同9年3月2日の間に推定することができ、その間弘安8年(1285年)に起きた霜月騒動に連座して亡くなったと推測される。 以上のような小谷説はその後、足利家準菩提寺の滝山寺(三河国額田郡)に残る「滝山寺縁起」の、正安3年(1301年)に貞氏が亡父の17年忌法要に際して滝山寺へ額田郡内の所領を寄進して如法堂を建立したとする記録によってその正確性が証明された。これが、「滝山寺縁起」を信憑性の高いものと認定し、その記載により弘安7年6月25日(1284年8月7日)に25歳で亡くなったとする、5の説(新行紀一による)である。これについては、『勘仲記』同年7月26日条の段階で橘知顕が伊予守に補任されていることが確認でき、これは前任者の家時がこの時までに亡くなったからであるとのことで、前述の臼井による正応2年(1289年)死去説は否定された。新行の弘安7年死去説は、のちに前田治幸らにも採用されて、最新の説となっている。 尚、従来までは2の文保元年(1317年)死去説が通説であったが、2の没年月日は『蠧簡集残編 六』所収「足利系図」(4と同史料)における家時の孫(貞氏の子)・高義のそれにほぼ一致しており混同したものとみられる。
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