生前葬と入定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/13 05:10 UTC 版)
鄧州は大正7年、80歳にして生前葬をしている。かつて円福寺での修行時代、自分は釈迦に比べて智も得も劣るのでせめて寿命だけは勝とうと松を植えて誓ったことがあり、79歳で示寂した釈迦の弟子がそれより長生きするのは申し訳ないという理由であった。同時に模範としていた徳山宣鑑入滅も80歳であり、徳山の禅風を継がんとしていた自らの活動にけじめをつけるためであった。それに先立つ明治42年には海清寺開山五百年遠忌であったが、記念法要を9年も延期し、自らの入定式と併せて執り行なおうとした。 大正6年8月、入定式厳修を懇請するために全国33か所の全道場を行脚した。人生最後の行脚となったこの旅だが、すでに明治39年に鉄道が国有化されて、蒸気機関車が飛躍的な進歩を遂げ、鉄道網も全国に張り巡らされていた時代である。従って、その行程のほとんどを汽車、電車、汽船、自動車といった文明の利器に頼る旅だった。それでも78歳を迎えながら全国33か所の寺院を約4か月で巡錫できたのは気力、体力ともに衰えていなかった壮挙とも云える。 かくして、大正7年4月4日に執り行われた入定式及び五百年遠忌では本山妙心寺の笛川元魯(てきせん げんろ)管長を始め、臨済宗各派の管長、師家に加えて関連する他宗派、特に黄檗宗からは管長代理が海清寺に揃った。居士大姉合わせると千人以上、近隣住民も詰めかけ、一躍町ぐるみの儀式に発展していた。鎌倉からは宗演も駆けつけ、一同に嵩山少林寺参拝談を講じた。鄧州は亀棺の中に瓢を持ち込み、葬式の最中大酒をあおっていた。この時、導師を務めた竹田は棺桶に背を向けて焼香をした。 鄧州は大正14年2月12日に遷化した。11日に「ワシは神武天皇祭当日に生まれたから紀元節に死ぬ。その時が来た」と涅槃衣に改め、いつものように晩酌をし、うどんを一口すすって座禅を組み、「うーむ」と一声唸った。そのまま示寂かと思われたが、医師が注射をしていたので6分ほど長引き、翌12日にずれこんだ。享年87。海清寺に供養碑がある。
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