現地案内板全文
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 07:09 UTC 版)
現地案内板より 宮水神社(通称親武さん)建立の由来天正十九年当時延岡城主、高橋元種は、何としても西臼杵地方を手に入れたかった。しかし、そのためには、西臼杵地方をおさめていた三田井親武をどうしても討たねばならなかった。そこで元種は、親武の家来、甲斐宗摂(当時中崎城主)に謀反を起させ、九月二七日真夜中仲山城(現在の向山〔ママ?〕にて、三田井親武を討ちとらせた。宗摂に討ちとられた親武の首(頭)は、二九日舟の尾へ送られたが、家来の者が首を持って宮水までくると、首が重くなり、歩くこともできなくたったので、このことを本陣へ注進したところ、不思議なことであると宮水で首実検が行われた。首実検の終わった親武の首は、このあたりの住民がもらい受け、泣く泣く近くの森に葬った。その後、享和三年(一八〇三年)三田井の支族、興梠権兵衛重綱、庄屋甲斐又兵衛、中村忠兵衛等相協議し、宮水の首塚に石碑を建立した。安政二年四月、中村忠兵衛の曾孫、中村寅五郎が主催して高千穂十八カ村の庄屋に働きかけて寄附を集め、三田井親武を祀る親武大明神の神社(宮水神社)を建立した。宗霊八幡大明神〔ママ〕明治十五年八月、北山大明神、稲荷大明神、雨社大明神、金毘羅大明神、逆巻大明神、天満宮(天神様)を合祀し現在に至っている。愛宕地蔵菩薩〔ママ〕 — 宮水神社 昭和五三年四月 、『社殿正面の案内板』 三田井親武公首塚(ちかたけこうくびつか)天正十九年(一五九一)延岡城主高橋元種(もとたね)が高千穂郷の領主三田井親武を攻めた。その折り三田井家の重臣甲斐宗攝(そうせつ)は元種に唆(そそのか)され主君の親武公を討った。首実検のため元種の本陣舟の尾に運ぶ途中、宮水まで来たところ急に首が重くなり運搬の武士が動けなくなって元種が本陣より出向いて首実検をすました。首実検の後、そのままに放置されていた親武公の首を村人たちが哀れに思い埋葬して山石を建て首塚とし供養した。(日州古今治乱記) — 日之影町教育委員会 平成十五年三月三十日 、『首塚の現地案内板』 雨社天満宮宮崎神社御由緒傳説雨社と言う社祀は神武天皇の皇兄「三毛入野命」〔ママ〕が「鬼八」退治の途中俄雨に会われた時、路傍にあった楠〔ママ〕の木の洞に休息され、雨が止んで再び出発される時記念として自然石二個を安置された。里人はこの石を神体として「三毛入野命」を尊崇し、楠木の傍に小社を建て「雨社水神」を稱して祭祀した。この小祀は、明治初年「宮水神社」に合祀されたが、御神体の自然石は今も存在している。また、袴谷とは「三毛入野尊」〔ママ〕が俄雨で袴の裾に付いた泥を洗った所という。里人はそこに樟〔ママ〕を植え「大山祗神」を祭祀したが安政二年「宮水神社」に合祀されたと云う。 — 『雨社の現地案内板』
※この「現地案内板全文」の解説は、「宮水神社」の解説の一部です。
「現地案内板全文」を含む「宮水神社」の記事については、「宮水神社」の概要を参照ください。
- 現地案内板全文のページへのリンク