現代的両立主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 16:59 UTC 版)
ハリー・フランクファートやダニエル・デネットのような現代的な両立主義者の主張によれば、たとえ強制された行為者であっても、その強制が行為者の個人的な意図や欲求と一致していれば、やはりその人は自由であるといわれることがある。特に、フランクファートは、階層の網と呼ばれる両立主義を提唱した。この考えによれば、個人は、互いに矛盾する一階の欲求を持つことができ、これらの一階の欲求に関する欲求(二階の欲求)というものを持つこともできる。その結果、これらの欲求のうちのどちらかひとつがその他の欲求に勝ることになる。個人の意志は、影響力のある一階の欲求(それに基づいて行為した欲求)と同一視されることになる。例えば、無意識的麻薬中毒患者、非自発的な麻薬中毒患者、自発的な麻薬中毒患者が存在するとしよう。これら3種類の患者はみな、麻薬を摂取したいという一階の欲求と、麻薬を摂取したくないという相反する一階の欲求を持っているかもしれない。第一グループである無意識的麻薬中毒患者は、麻薬を摂取したいと欲求したくないという二階の欲求を持たない。すなわち、彼らには麻薬に関する二階の欲求そのものが欠けており、麻薬摂取の有無は対立する一階の欲求の優劣に依存する。第二グループである非自発的麻薬中毒患者は、麻薬を摂取したくないという二階の欲求を持っている。他方で、第三グループである自発的麻薬中毒患者は、麻薬を摂取したいという二階の欲求を持っている。フランクファートによれば、第一グループのメンバーは、意志が欠如しているとみなされるべきであり、したがってもはや人格をもつ存在ではない。第二グループのメンバーは、麻薬を摂取したくないということを自由に欲求しているが、彼らの意志は中毒によって打ち負かされてしまう。最後に、第三グループのメンバーは、彼らを中毒にした麻薬を自発的に摂取している。フランクファートの理論は、任意の数のレベルを分岐させることができる。この理論に対する批判は、意志の葛藤が欲求や選好のより高次レベルにおいて生じないとはかぎらないと指摘する。また、ある人々は、フランクファートは階層の網の中で様々なレベルがどのように相互作用するのかという問題に対する適切な説明を与えていないと論じる。 デネットは彼の著書『活動の余地』において、自由意志の両立主義を擁護する論拠を提示した。これは、同じく彼の著書『自由は進化する』の中でさらに詳述されている。彼の基本的な理由付けによれば、もしある人が神、全能の悪魔およびその他のこの種の可能性を排除するならば、そのとき、カオスと、世界の現状に関する私たちの知識の正確さに対する生来的な制約のせいで、未来はあらゆる有限的存在者にとって、曖昧であることになる。つまり、有限的存在者にとって、未来は不確実であり、そのような存在者の予測は常に可謬的である。唯一明解なものは、期待である。別様に行為する能力が意味を持つのは、このような期待に関してのみであって、知られておらずまた知られることができない未来に関してではない。各人は誰かが期待したのとは異なる仕方で行動する能力を有しているので、自由意志は実在することができる。非両立主義者は、このような考え方には私たちは環境からの刺激に対応する形で単に自動的な応答をすることしかできないという問題が纏わりつくと非難する。彼らの主張によれば、私たちの行為は全て、外的な力によってコントロールされているか、あるいは、ランダム・チョイスでしかない。自由意志の両立主義に関するもっと洗練された分析が、その他の批評家たちによって提供されている。
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