現代の再評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 15:39 UTC 版)
「コンスタンティノープル包囲戦 (674年-678年)」の記事における「現代の再評価」の解説
近代以降の歴史家たちは、この包囲戦に関する情報のほとんどを証聖者テオファネスの文献に頼っている。アラビア語やシリア語の文献は包囲戦に一切触れず、代わりに個々の遠征について言及しており、それらもコンスタンティノープルには程遠いところまでしか到達していないとしている。なお、673/4年にアルワドという「クスタンティニヤの海」の島を占領したという記述がある。ただこの海がマルマラ海とエーゲ海のいずれを指しているかは不明瞭である。また676年のヤズィードの遠征軍がコンスタンティノープルに達したという記述もある。シリア語年代記者たちは、ギリシアの火が使われアラブ艦隊が壊滅したのは674年のリュキア・キリキア沿岸での海戦であるとし、コンスタンティノープルで行われたとするテオファネスの記述を否定している。またその後には、677/8年に東ローマ帝国軍がシリアに上陸し、マルダイテスの蜂起も始まりカリフのシリア支配が揺らいだことで678/9年に和平が結ばれた、という記述が続く。 現代の歴史学者コンスタンティン・ズッカーマンは、8世紀初頭にエルサレムのコスマスが書いたナジアンゾスのグレゴリオスの文献の注釈にみられるはっきりしない文章のみが、アラブ人のコンスタンティノープル封鎖に言及している、と考えている。その文章には、いかにコンスタンティノス4世がエーゲ海からガリポリ半島を抜けマルマラ海へと船を操ったかが言及されている。ダーダネルス海峡がキュジコスのアラブ人によって封鎖されていたとすれば、この行動は東ローマ帝国海軍にとって特に重要な作戦行動であったと考えられる。 オックスフォード大学の学者ジェームズ・ハワード=ジョンストンは、中世の歴史家たちが用いた原典を再検討し、2010年にWitnesses to a World Crisis: Historians and Histories of the Middle East in the Seventh Centuryと題した本を出版した。ここでハワード=ジョンストンはシリアの年代記者たちの見解を重視し、伝統的なテオファネスの年代記に基づいた解釈を否定した。彼によれば、東方イスラーム圏の文献に包囲戦の記述がなく、テオファネスが言うような長期間の包囲戦は兵站の問題の上で不可能であるといった理由から、包囲戦そのものが存在しなかったと結論付けた。テオファネスが使用した文献は、717年から718年の包囲戦に影響を受けてその前の戦役を解釈した筆者不明の文献である、とした。彼は総論として、「670年代のコンスタンティノープル封鎖というのは、彼らは単に中東を力で覆っていただけなのだと気づいたアラブ人たちの深刻な不安の中で勃発した内乱に乗じて、ムアーウィヤ時代最後の年代にビザンツ帝国が達成したリュキア沖の海と陸上における至極実際の成功で覆い隠された神話である」とした。 一方で歴史家のマレク・ヤンコヴィアクは、アラブ人による大規模な包囲戦自体は実在したものの、それを140年後のテオファネスが、約50年後の筆者不明の文献に基づいて誤った年代のもとに混同して記述したのだとしている。彼は包囲戦の年代を667年から669年とし、668年の春に大規模攻勢が行われたとした。
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