王國維とは? わかりやすく解説

おう‐こくい〔ワウコクヰ〕【王国維】

読み方:おうこくい

[1877〜1927]中国近代の歴史学者海寧浙江省)の人。字(あざな)は静安。号は観堂。西欧哲学学び、それに基づいて中国古典再評価を行う。羅振玉(らしんぎょく)に認められ日本留学辛亥(しんがい)革命のとき日本亡命中国古代史研究画期的な業績残した。著「観堂集」など。ワン=クオウエイ。


王国維

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/14 21:19 UTC 版)

王国維
プロフィール
出生: 1877年12月3日
光緒3年10月29日)
死去: 1927年民国16年)6月2日
中華民国北京市
出身地: 浙江省杭州府海寧州
職業: 学者
各種表記
繁体字 王國維
簡体字 王国维
拼音 Wáng Guówéi
和名表記: おう こくい
発音転記: ワン・グオウェイ
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王 国維(おう こくい)は、清末民初学者思想家近代的な中国学の開拓者(国学大師)の一人。中国文学中国史学考古学美学哲学など多分野を論じた。甲骨文字研究の開拓者でもあり、羅振玉董作賓郭沫若とともに「甲骨四堂」と称される。静安または伯隅観堂

生涯

浙江省杭州府海寧州出身。1882年から私塾で学び、1893年秀才となる。1899年上海にて変法派の雑誌『時務報』に勤務するとともに、羅振玉の東文学社で外国語と化学物理学を学び、西洋の学問に触れるようになった。

1901年日本の東京物理学校(東京理科大学の前身)に留学したが、病のため翌年に帰国した。1903年から通州師範学堂と江蘇師範学堂で哲学・心理学などを講義するようになり、『紅楼夢評論』などの哲学・美学論文を多数発表した。これらは1905年に『静安文集』として出版された。1907年北京に行き学部図書館編訳・名詞館協修に任命された。この間に『人間詞話』『宋元戯曲考』を著している。1911年辛亥革命がおこると日本に逃れ、京都帝国大学中国学者・狩野直喜の世話を受けた[1]

1916年、帰国して上海の倉聖明智大学の教授となり、『浙江通志』の編纂にも参加している。1917年には『殷周制度論』を著した。1923年愛新覚羅溥儀に招かれ「南書房行走」に就任した。1925年清華大学国学研究院教授となり、経学・史学を講義し、漢や魏の石刻文や古代の西北地理やモンゴル史料を研究した。梁啓超陳寅恪趙元任とともに清華大学の「四大導師」と称された。

1927年頤和園の昆明池で入水自殺。理由についてはさまざまな説がある。

著書

関連項目

関連文献

  • 佐藤武敏『王国維の生涯と学問』風間書房、2003年。ISBN 9784759913989
  • 井波陵一『紅楼夢と王国維 二つの星をめぐって』朋友書店、2008年

外部リンク

  1. ^ 『狩野君山の阿藤伯海あて尺牘集』、P346、狩野直禎監修注釈、杉村邦彦・寺尾敏江編、法藏館、2019年2月



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