許修直とは? わかりやすく解説

許修直

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/16 17:44 UTC 版)

許修直
『最新支那要人伝』1941年
プロフィール
出生: 1881年光緒7年)[1]
死去: 1954年
中華人民共和国北京市
出身地: 江蘇省常州府無錫県
職業: 政治家
各種表記
繁体字 許修直
簡体字 许修直
拼音 Xǔ Xiūzhí
ラテン字 Hsü Hsiu-chi
和名表記: きょ しゅうちょく
発音転記: シュー シウジー
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許 修直(きょ しゅうちょく)は中華民国の政治家。旧名は卓然西渓

事跡

日本に留学、中央大学法科を卒業した。なお留学中に中国同盟会に加入している。帰国後は、江蘇提法司科長、蘇州私立法政学堂教習、浙江高等審判庁推事、同代理庁長、浙江官立法政学堂教習、大理院推事を歴任した。[2][3]

1924年民国13年)11月、黄郛に起用されて国務院印鋳局局長となる。以後、黄の腹心として活動することになった。1927年(民国16年)、国民政府に転じ上海市法制室主任となる。同年10月、交通部秘書長となった。翌年12月、交通部参事となる。1933年(民国22年)、行政院北平政務整理委員会委員(委員長:黄郛)にも任ぜられ、日本との折衝にもあたった。1935年(民国24年)7月、内政部長の黄の下で内政部常務次長に昇格した。翌年2月、病気により辞任した黄に従う形で許修直も辞任している。[2][3]

日中戦争勃発後の1937年(民国26年)12月、中華民国臨時政府新民会厚生部長となる。翌年1月、行政委員会調査処処長となった。3月、中華民国維新政府で行政院司法行政部部長に任命されたが、これは受けなかった。同年7月、華北電信電話株式会社副総裁となる。このほか、北京華僑協会理事などをつとめた[4]。1939年以降の動向はしばらく不詳となるが、1945年(民国34年)2月、汪兆銘政権北京特別市市長に任ぜられている。汪兆銘政権崩壊後の動向は不詳だが、1954年に北京で死去した。享年74。[2][3]

  1. ^ 劉国銘主編(2005)、577頁と東亜問題調査会編(1941)、41頁による。徐主編(2007)、1683頁は1880年(光緒6年)とする。
  2. ^ a b c 徐主編(2007)、1683頁。
  3. ^ a b c 東亜問題調査会編(1941)、41頁。
  4. ^ この間、各職の就任状況は資料により異なる。本記事は主に東亜問題調査会編(1941)、41頁に拠った。

参考文献

  中華民国維新政府
先代
(創設)
司法行政部長
1938年5月 - 7月
次代
胡礽泰
  南京国民政府(汪兆銘政権
先代
劉玉書
北京特別市長
1945年2月 - 8月
次代
(廃止)




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