王、長嶋との関係
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巨人の王貞治が伸び悩んでいた1962年、川上哲治監督は巨人のコーチとなっていた荒川博に「榎本を育てたように王を育ててくれ」と指示した。これに基づき、荒川が榎本に王への助言を頼んだ。榎本は実際に王の素振りを見て「君はスイングの後、右の膝が割れる(開く)からいけない。それだと力のある打球が飛ばないよ」とフォームの欠点を指摘。王の右足が動かないよう思い切り踏みつけながら素振りをさせ、フォームの矯正を指導した。王貞治は榎本について、「4つ上の先輩で、荒川道場では一緒に練習をさせていただいた。プロの厳しさを目の当たりにして、すごい世界に入ったと思いました」と振り返っている。 王との練習について、次のような逸話がある。1962年11月、荒川博の勧めにより、羽賀準一の下で王・広岡達朗・須藤豊と共に剣道を習った。その際、真剣を使って藁を切る練習を行い、全員失敗した(スイング時に無駄な力が入ると力を活かしきれないことを教えるため)。翌週、皆の前で榎本と王のみが再び真剣を使った練習を許され、王は一回で藁を切ったが、榎本は失敗した。その帰り道、自身の不甲斐なさと王に先を越された焦りから、榎本は涙したという。帰宅後、父に頼んでありったけの藁束を集めさせ、真剣で斬り始めるも上手くいかず、荒川を呼び寄せて指導を乞い、夕方に藁を斬ることができた。この際に榎本は羽賀の言う「無駄な力を使わない振り」を体得し、打撃への理解を深めたという。 榎本をプロ5年目から指導し、王貞治を本塁打王に育てた荒川博は、「榎本は真面目だから、首位打者を獲得してからも、さらに突き詰めようとした。王もよく練習したが、その突き詰め方は違った。王は運よくホームランになれば喜んだが、榎本はホームランになっても、こう打てばもっとよかったと考える。技術的には王よりも榎本のほうが上だった。しかし、榎本は極めようとしすぎたのだろう。精神的に大変な状態になった。その点、王は適当にサボることを知っていた。突き詰めた先に、ゆとりや遊びが生まれた。この点が、世界一のホームラン王になれた王と、そうでなかった榎本の違いではないだろうか」と両者の違いについて寸評している。 同い年(ただし、長嶋は早生まれ)で同じ背番号「3」の長嶋茂雄に対しては、強い敵対心を燃やしていた。榎本は「相撲だったら長嶋に勝てる。超満員の観衆の前で一度長嶋を投げ倒すのが僕の夢でした。一塁にきた長嶋に言ってやろうと思いました。“長嶋、相撲で勝負しろ”と」と語っている。また千葉茂は、ファンから人気があり派手な選手であった長嶋を「サーカスのライオン」、地味な選手であった榎本を「神主」と例えたことがある。 稲尾和久は、著書において、やり難かった打者として榎本と長嶋の名前を挙げている。稲尾は相手打者の目を見つめて心理状態を探ってから投球を組み立てていたが、この2人は「何を考えているのか分からなかった」という。稲尾の理論では「打者と対峙する時、気の強い打者は目を合わせてくる。気の弱い打者は目を合わせて来ない」が、榎本はそのどちらでもなく、「自分の方を見てはいるのだが、目は合わない。目ではなくて額か眉間を見られているようで不気味だった」と述べている。一方で長嶋については、日本シリーズで初めて対戦した際、じっと長嶋の目を見ても何も反応が返ってこなかったため、稲尾は「なんと隙だらけの打者なのか。一分の隙もない榎本さんとは大違いだな」と戸惑いつつも得意のスライダーを投じた。すると長嶋の身体がいきなり反応し、打たれたことのないコースを打てるはずのない体勢で打ち返してきて、長打にされたという。野村克也も、心理が読めずにやり難かった打者として、榎本と長嶋の名前を挙げている。
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