献策を退けられるとは? わかりやすく解説

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献策を退けられる

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:59 UTC 版)

楠木正成」の記事における「献策を退けられる」の解説

『太平記』流布本16「正成兵庫下向の事」が描く物語によれば建武の乱多々良浜の戦い勝利した足利方が再び京に迫まり、義貞が兵庫退却したという早馬が京へ届くと、後醍醐天皇は正成を呼び出し、義貞とともに尊氏迎え撃つように命じた。正成は帝に対し、「尊氏軍勢大軍であり、疲弊した味方小勢まともに正面からぶつかれば決定的な負け戦になるでしょう。ここは新田殿を京に呼び戻し、帝は以前のように比叡山臨幸して下さい。私が河内戻って河尻(淀川の河口)を抑え、京に入った足利軍新田とともに前後から兵糧攻めにすれば敵兵の数は減ることでしょうし、我々の軍勢には味方日々馳せ参じるでしょうその時狙い新田殿が比叡山から、私が搦手より攻め上れば朝敵一戦掃滅すること可能かと思えます新田殿もきっとこの作戦同意するでしょう」と進言した。この策は正成にとっては、比叡山朝廷一時退避して足利軍京都迎え撃つという、現実的かつ必勝の策でもあった。 この正成の進言に対して、諸卿らは「確かにに関して武家任したほうが良い」と、納得しつつあった。だが、坊門清忠が「帝が都を捨てて一年二度臨幸するのは帝位そのもの軽んずる」とし、「味方軍勢少数ながらも、毎回大敵滅ぼしてきた。それは武略優れていた訳でもなく、聖運の天に通じたから」だと述べ、正成は即刻義貞のいる兵庫に向かうべきと主張したその結果後醍醐天皇は正成の意見ではなく坊門清忠意見尊重した。正成は今更反論しても仕方がない考え朝議結果受け入れた。 以上は「流布本」の描く筋書きであるが、この物語写本の系統によって異同がある。特に、古態本(『太平記』原型に近いとされる写本)の一つである「西源院本」では、坊門清忠登場しないまた、神宮徴古館本」では、後醍醐への憤りから「智謀叡慮で勝つのを望まず、無二の戦士をあえて大軍にぶつけるなどと仰るなら、私は義を重んじる忠臣勇士なので、お望み通り死んでみせましょう」と皮肉を述べるなど、忠臣勇士とは言いがたい描写がされている。

※この「献策を退けられる」の解説は、「楠木正成」の解説の一部です。
「献策を退けられる」を含む「楠木正成」の記事については、「楠木正成」の概要を参照ください。

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