献納事業の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 02:21 UTC 版)
献納事業については『東大寺献物帳』に『法隆寺献物帳』を加えた6通の献物帳にある文面などから様々な考察が行われている。 まず、献納事業は『法隆寺献物帳』にある「金光明寺等十八寺」の文言から同事業が東大寺以下18ヵ寺に行われたことがわかる。しかし『法隆寺献物帳』に「7月8日の勅令により」とあることから、5通ある東大寺献物帳のいずれがこれに該当するかについて説が分かれている。 『国家珍宝帳』と『法隆寺献物帳』の願文、署名者、筆跡に共通点が多く、一連の作業で作られたとする説 7月8日勅での献納には、それ以前に献納されている『国家珍宝帳』(6月21日献納)は該当せず、法隆寺と同時に献納が行われたのは『屏風花氈等帳』であるとする説 『屏風花氈等帳』は「7月17日の勅により」と書かれていることからこれも該当せず、金光明寺は東大寺と別寺院とする説 なお献物帳が残されている東大寺と法隆寺以外で献納が行われた寺は、弘福寺の資財帳にある「御帯等施入勅書一巻勝宝八年」の記載が該当すると指摘されるのみで他は不明である。 次に献納事業の主体が誰であったかについてである。献納事業が光明皇后の強い意向のもとで行われたことは『国家珍宝帳』に「皇太后御製」とあることから疑いはない。和田軍一は献納の動機について「光明皇后の個人的な愛情に発するところが大きく、先帝の冥福の祈願とご遺品の永久保存にあった」としている。しかし『屏風花氈等帳』『大小王真跡帳』『法隆寺献物帳』にある「勅」の解釈については議論がある。 勅を下せたのは天皇のみであるから『屏風花氈等帳』『大小王真跡帳』『法隆寺献物帳』の事業主体は孝謙天皇で、それ以外は光明皇后とする説 すべて光明皇后が主体で、光明皇后の令旨が孝謙天皇の勅の形式で発せられたとする説 事業を監督していたと思われる紫微中台の職務に「居中奉勅」とあることから、光明皇后に勅を発する権限があったとする説 また、献物帳作成の目的について、随所に藤原氏との結びつきを強調する部分があることから、藤原氏と皇室の結びつきを示すためとする説もある。
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