猪退治
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「八戸藩日記」元文2年(1737年)年6月28日条に、八戸廻山根通で猪が荒れているので、「おどし討」のため鉄砲3挺の拝借を請願したこと、武具預り役人からそれを受け取って代官に渡したことが記されている。それ以前から害獣に対して鉄砲の使用許可の請願もあったが、人や馬を襲う狼への対処が主なものであったと考えられている。 延享年間になると、猪狩のための拝借鉄砲など、猪に関わる記事が増えており、延享3年(1746年)7月27日には、猪荒れを防ぐために農村での狗(犬)の飼い置きが奨励された。翌月には、軽米通や八戸廻で猪・鹿の喰い荒らしによる不作の見分願が出された。同4年(1747年)5月17日条には、軽米通だけは狼が出現して猪が1匹も見えないが、他の地域では近年狼がいなくなるとともに猪荒れがひどくなったとある。 寛延元年10月から翌2年の正月までに猟師や農民を動員して大規模な駆除作戦を実施して2000頭余を殺し、宝暦元年(1751年)春には2923頭余を仕留めた。 八戸廻代官所管内で寛延2年正月15日には804匹、同年12月5日には200匹を、久慈代官所管内で246匹の猪を仕留めた。翌3年正月下旬に、猪狩御用を命じられた中里八郎右衛門は、「猟師」を派遣して2月3日までに175匹「討留」、49匹「手負」にした。同年1月23日から24日に32匹、25日から27日までに33匹を仕留めたと記録されている。「八戸藩日記」の寛延4年3月4日の記事には「此の間までに仕留めた猪数二千九百二十三疋余」と記されている。 宝暦元年(1751年)4月22日、猪への対応のため犬を飼い置くよう命じたが、多く抱えることで怪我人が出たため、抱え置くことを停止するようお触れが出されたが、猪の被害は続いていた。同年8月8日に軽米通で猪荒れのため650石余が不作になったとして見分願が出された。そのほかにも、 宝暦元年3月には五代官の管内で冬期間に猪2923匹 同5年(1755年)2月には昨年中久慈津で猪240匹と猿2匹 同9年(1759年)3月には猪・鹿181匹 をそれぞれ駆除したと家老席に報告がなされた。 猪の被害は猪飢饉の後も若干だが継続し、後の宝暦の飢饉にまで至った。「八戸藩日記」には宝暦の飢饉の時にも多くの猪を退治した記録があるが、飢饉の主な原因は冷害であって、猪が飢饉に関与したという捉え方はされていない。
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