猪退治とは? わかりやすく解説

猪退治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/18 21:45 UTC 版)

猪飢饉」の記事における「猪退治」の解説

八戸藩日記元文2年1737年)年6月28日条に、八戸山根通で荒れているので、「おどし討」のため鉄砲3挺の拝借請願したこと、武具預り役人からそれを受け取って代官渡したことが記されている。それ以前から害獣に対して鉄砲使用許可請願もあったが、人や馬を襲うへの対処主なものであった考えられている。 延享年間になると、猪狩のための拝借鉄砲など、関わる記事増えており、延享3年1746年7月27日には、荒れを防ぐために農村での)の飼い置きが奨励された。翌月には、軽米通や八戸廻で・鹿の喰い荒らしによる不作見分願が出された。同4年1747年5月17日条には、軽米通だけは出現しが1匹も見えないが、他の地域では近年がいなくなるとともに荒れがひどくなったとある。 寛延元年10月から翌2年正月までに猟師農民動員して大規模な駆除作戦実施して2000頭余を殺し宝暦元年1751年春には2923頭余を仕留めた八戸代官所管内寛延2年正月15日には804匹、同年12月5日には200匹を、久慈代官所管内246匹の仕留めた。翌3年正月下旬に、猪狩御用命じられ中里八郎右衛門は、「猟師」を派遣して2月3日までに175匹「討留」、49匹「手負」にした。同年1月23日から24日32匹、25日から27日までに33匹を仕留めた記録されている。「八戸藩日記」の寛延4年3月4日記事には「此の間までに仕留めた二千九百二十三疋余」と記されている。 宝暦元年1751年4月22日への対応のため飼い置くよう命じたが、多く抱えることで怪我人出たため、抱え置くことを停止するようお触れ出されたが、被害続いていた。同年8月8日軽米通で荒れのため650石余が不作になったとして見分願が出された。そのほかにも、 宝暦元年3月には五代官の管内冬期間に2923匹 同5年1755年2月には昨年久慈津で240匹と2匹9年1759年3月には・鹿181匹 をそれぞれ駆除した家老席に報告なされた被害猪飢饉の後も若干だが継続し、後の宝暦の飢饉にまで至った。「八戸藩日記」には宝暦の飢饉時に多く退治した記録があるが、飢饉主な原因冷害であって飢饉関与したという捉え方はされていない

※この「猪退治」の解説は、「猪飢饉」の解説の一部です。
「猪退治」を含む「猪飢饉」の記事については、「猪飢饉」の概要を参照ください。

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