熊本城強襲と植木・木葉の戦い
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「西南戦争」の記事における「熊本城強襲と植木・木葉の戦い」の解説
2月19日、熊本鎮台が守る熊本城内で火災が起こり、烈風の中櫓に延焼し、天守までも焼失した。この火災の原因は今もって不明である。天守閣には籠城1か月分に相当する兵糧や薪炭が備蓄されていたが、何とか運び出せた弾薬以外は悉く灰になってしまった。更に火は城下にも飛び火し城の東側、東南側の城下町を焼き尽くした。またこの日小川にまで到達していた先鋒の独立大隊に熊本士族で学校党首領の池辺吉十郎が訪れ別府と面会し協力を申し出るが、熊本城攻略の方策を尋ねた際の別府の「鎮台兵がもしわが行路を遮ぎろうとしたら一蹴するのみ。別に方略などない」という発言を聞き、薩摩人の剽悍にのみ恃む気風を危惧していた自身の予想が当り内心失望を覚えている。 2月20日、先鋒の独立大隊は川尻に到着。同日深更、鎮台参謀長の樺山資紀中佐の発案で派遣された偵察隊が独立大隊に発砲し、西南戦争の実戦が始まった。この際捕虜とした伍長の証言で熊本鎮台側が籠城の構えである事を知った薩軍は、川尻に到着した幹部が集まり21日夜軍議を開いた。 軍議では池上が主張する当初の「熊本に抑えを置き、主力東上」策と篠原らが主張する「全軍による熊本城強襲」策が対立したが、強襲策が採用された。2月21日の夜半から22日の早暁にかけて薩軍の大隊は順次熊本に向けて発し熊本城を包囲した。桐野の第四大隊・池上の第五大隊は正面攻撃、篠原国幹の第一大隊・村田新八の第二大隊・別府晋介の加治木の大隊、および永山弥一郎の第三大隊の一部は背面攻撃を担当、また薩軍に同調して合流した熊本士族で学校党首領の池辺吉十郎率いる熊本隊の隊士が薩軍各隊の教導役として参加している。 一方、鎮台側は熊本城を中心に守備兵を配置した。この時の鎮台側には、司令官の谷干城少将、参謀長の樺山資紀中佐をはじめ、児玉源太郎少佐、川上操六少佐・奥保鞏少佐・小川又次大尉・大迫尚敏大尉など、後年の大物軍人・政治家らが参加していた。この時の戦力比は薩軍約14,000人に対して、鎮台軍約4,000人であった。この強襲中の昼過ぎ、遅れて西郷が川尻から代継宮に到着した。
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