熊本城強襲と植木・木葉の戦いとは? わかりやすく解説

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熊本城強襲と植木・木葉の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 19:11 UTC 版)

西南戦争」の記事における「熊本城強襲と植木・木葉の戦い」の解説

2月19日熊本鎮台が守る熊本城内で火災起こり烈風の中延焼し天守までも焼失した。この火災の原因今もって不明である。天守閣には籠城1か月分に相当する兵糧薪炭備蓄されていたが、何とか運び出せ弾薬以外は悉くになってしまった。更に火は城下にも飛び火し城の東側東南側の城下町焼き尽くした。またこの日小川にまで到達していた先鋒独立大隊熊本士族学校党首領の池辺吉十郎訪れ別府面会し協力申し出るが、熊本城攻略方策尋ねた際の別府の「鎮台兵がもしわが行路を遮ぎろうとしたら一蹴するのみ。別に方略などない」という発言聞き薩摩人の剽悍にのみ恃む気風危惧していた自身予想当り内心失望覚えている。 2月20日先鋒独立大隊川尻到着同日深更鎮台参謀長樺山資紀中佐発案派遣され偵察隊独立大隊発砲し西南戦争実戦始まったこの際捕虜とした伍長証言熊本鎮台側が籠城構えである事を知った薩軍は、川尻到着した幹部集まり21日夜軍議を開いた軍議では池上主張する当初の「熊本抑えを置き、主力東上」策と篠原らが主張する全軍による熊本城強襲」策が対立したが、強襲策が採用された。2月21日夜半から22日早暁にかけて薩軍大隊順次熊本向けて発し熊本城包囲した桐野第四大隊池上第五大隊正面攻撃篠原国幹第一大隊村田新八第二大隊別府晋介加治木大隊、および永山弥一郎第三大隊一部背面攻撃担当、また薩軍同調して合流した熊本士族学校党首領の池辺吉十郎率い熊本隊の隊士薩軍各隊教導役として参加している。 一方鎮台側は熊本城中心に守備兵配置した。この時の鎮台側には、司令官谷干城少将参謀長樺山資紀中佐をはじめ、児玉源太郎少佐川上操六少佐奥保鞏少佐小川又次大尉大迫尚敏大尉など、後年大物軍人政治家らが参加していた。この時の戦力比薩軍14,000に対して鎮台軍約4,000であった。この強襲中の昼過ぎ遅れて西郷川尻から代継宮到着した

※この「熊本城強襲と植木・木葉の戦い」の解説は、「西南戦争」の解説の一部です。
「熊本城強襲と植木・木葉の戦い」を含む「西南戦争」の記事については、「西南戦争」の概要を参照ください。

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