熊八のアイデア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 10:22 UTC 版)
大阪と別府港を結ぶ定期航路の汽船は、当初は沖合に停泊し客は危険を伴うはしけでの上陸を強いられていたが、汽船を運航する大阪商船に掛け合い、1916年には汽船が接岸出来る専用桟橋を実現させた。 「山は富士、海は瀬戸内、湯は別府」というキャッチフレーズを考案し、このフレーズを刻んだ標柱を1925年に富士山山頂付近に建てたのをはじめ、全国各地に建てて回った。また建設の予定がない場所に対しても「別府温泉 亀の井ホテル建設予定地」の立て看板を、別府市内・大分県内はもとより福岡・大阪・東京に立てて別府を宣伝した。 自動車の発展を見越して、現在の九州横断道路(やまなみハイウェイ)の原型でもある、別府~湯布院~くじゅう高原~阿蘇~熊本~雲仙~長崎間の観光自動車道を提唱し、1925年にはルート上の長者原にホテルを開設した。 1926年に別府ゴルフリンクスというゴルフ場を開き、温泉保養地とスポーツを組み合わせた新しいレジャーの形を提案した。 1927年に大阪毎日新聞主催で「日本新八景」が選ばれた際に、葉書を別府市民に配って組織的に投票を行い、別府を首位に導いた。 1928年に日本初の女性バスガイドによる案内つきの定期観光バスで別府地獄めぐりの運行を始めた。 1931年から手のひらの大きさを競う「全国大掌大会」を亀の井ホテルで開催した。 温泉マークを別府温泉のシンボルマークとして愛用し、一般に広めた。なお、このマーク自体を油屋が考案したという説は成立しない。手のひらが大きく、「全国大掌大会」も開いた油屋が手形から温泉マークを思いついたというのが油屋考案説である。しかし、油屋が別府に定住したのは1911年であり、大掌大会の開催は1931年である。一方、湯気が曲線になっている温泉マークが地形図に採用されたのは1895年の「明治28年式地形図図式」であるので、この説は成り立たない。
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