灌漑の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 00:41 UTC 版)
農耕の開始によって人口が増加し、国家が形成されるようになると、人々を安定的に統治するために必要な農耕生産の向上が必須課題となり、開墾や干拓、灌漑などさまざまな公共事業が行われ始める。そこでは、常に治水問題と灌漑問題の解決が重要であった。治水問題では洪水などによる水害を防ぐための築堤などの河川整備が、灌漑問題では水源確保のためのため池、堰堤やダムの建設と水源から目的地までの用水路の建設などの農地整備が相互に関連しながら行われてきた。 中でも灌漑技術は概して水資源の少ない地域において開発され発達してきた技術である。そこでは、主に畑作用水資源の安定的供給による農耕生産の安定性と生産性自体の向上を目的としていた。 考古学調査の結果、紀元前6千年紀ごろからメソポタミア、エジプト、イランといった中東で灌漑が行われていた証拠が見つかっている。それらの地域で自然な降水量だけでは生育できない大麦が栽培されていたことがわかっている。 紀元前800年ごろの古代イラン(ペルシャ)で発達したカナートは、今日も使われている最古の灌漑技法の1つである。この技法はアジア、中東、北アフリカに広まっている。このシステムは多数の井戸と緩やかに傾斜したトンネルで構成され、地下水を灌漑に使用する。 粘土製の壷を周囲につけた水汲み水車(ノーリア)は、水流の力で駆動され(水流がない場合は畜力を使用(サキア))、中国の漢やシリア・イラク・ペルシャ地域で最初に使い始められたとされている。紀元前150年ごろにはその壷に弁がつけられ、水を汲み上げる効率を向上させた。
※この「灌漑の歴史」の解説は、「灌漑」の解説の一部です。
「灌漑の歴史」を含む「灌漑」の記事については、「灌漑」の概要を参照ください。
- 灌漑の歴史のページへのリンク