灌漑の起源と儀礼
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/06 22:46 UTC 版)
インカ帝国の人々はトウモロコシやジャガイモを生産していた。アンデス地方は冬は乾燥し、夏は多雨とはいえ降雨量の少ない時期や場所があるという気候であること、海岸地域は砂漠であり高地も水持ちの悪い土壌であったことから、灌漑設備は必要不可欠であった。インカ帝国の時代より前に灌漑設備は充実しており、帝国は水役人をおいてこれを管理させていた。また、人々は土地を個人所有せず「アイリュ(アイユウ)」という家族集団で共有していた。チョゲ・スソが自分の畑だけでなく村中の畑の救済をパリアカカに求めたのはこのためであった。 農業用水の管理組織の起源を伝えるこの神話は、元々は一地方の伝説であったものが、灌漑の組織が自分たちの経済生活を支える上で重要なものだと認めたペルーの人々によって国中に伝えられたと考えられている。 さらに、農作業を始める前の時期に灌漑水路を清掃することは、農耕儀礼の重要な要素でもあった。アイリュの人々は豊作を祈って偶像に供物を捧げて祈ってから水路の掃除と耕作に取りかかった。また水路の水源となる泉や水路の入口もワカと呼ばれて神聖視され、神の守護と水の確保を祈る儀礼が行われた。チョゲ・スソ(チュキ・スソ)は古くから知られたワカであり、チョコ・カリャと呼ばれる石となって水路の入口に置かれ、水路を守ったとされている。そして水路清掃の際には彼女に供物が献上されるなどして崇拝を受けた。彼女の祭儀が終わった後、住民は夜通し祭りに興じたといわれている。
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