潜在した問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/05 14:09 UTC 版)
1830年から1860年の間に非常に多くのドイツ系やアイルランド系のカトリック教徒がアメリカ合衆国に移民として渡ったことによって、カトリック教徒とプロテスタントの間の宗教的違いが政治問題となり、ヨーロッパにおける両教徒間の紛争を写すような緊張関係が生まれた。選挙を巡って暴力沙汰が起こることもあった。 カトリック教徒はその聖職者とは政治的に独立であると主張していたが、プロテスタントは教皇ピウス9世がヨーロッパの1848年革命を鎮圧させたので、自由主義、民主主義および共和制の敵だと主張していた。あるボストンの牧師はカトリック教会のことを「専制政治の同盟者、物質的繁栄の反対者、倹約の敵、鉄道、党員集会および学校の敵」と表現していた。教皇自ら選出し、教皇に従順なアイルランド人司祭によって管理されるカトリック教徒が次々とアメリカ合衆国に流入することで、教皇はアメリカ合衆国を従属させようとしている、という教皇陰謀説が流れて、その恐怖感が拡大した。1849年、誓いによって結束された秘密結社であるオーダー・オブ・スター・スパングルド・バナーがニューヨーク市で、チャールズ・B・アレンによって結成された。これがアメリカン党に幾つかあった部隊の中核になった。 カトリック教徒移民に対しての恐怖があったことは、多くの都市の指導者がアイルランド系カトリック教徒だった民主党には不満だった。活動家達は秘密の集団を作り、投票を操作して、自分達に同調する候補者に重み付けした投票をさせていた。党員はその秘密組織について尋ねられたときに、「私は何も知らない」と答えるようになっており、そのことで世に「ノウ・ナッシング」と呼ばれるようになった。この運動は1855年にシカゴからボストンまでの主要都市における選挙で勝利し、マサチューセッツ州議会を制し、同州知事にも当選した。 1850年代前半の5年間、移民の数はその10年前の5倍のレベルに達した。新しく到着する者の大半はアイルランドやドイツからの貧しいカトリック教徒小作農あるいは労働者であり、大都市の安アパートに密集した。犯罪と福祉のための費用が急上昇した。例えばシンシナティ市の犯罪率は1846年から1853年の間に3倍となり、殺人の件数は7倍になった。ボストン市の貧者救済費用は同じ期間に3倍となった。 — ジェイムズ・M・マクファーソン、Battle Cry of Freedom, p. 131
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