源氏一族の争いとは? わかりやすく解説

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源氏一族の争い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 21:56 UTC 版)

清和源氏」の記事における「源氏一族の争い」の解説

源満仲の子中でも特に三男源頼信は、長元元年1028年房総三カ国(上総国下総国安房国)で起きた平忠常の乱長元の乱)を平定するなどの武功を示す。また頼信の子・頼義は康平5年1062年)から陸奥国奥六郡に蛮拠する俘囚長・安倍氏を討ち前九年の役)、頼義の子八幡太郎義家は、同族源国房源重宗合戦繰り広げ寛治元年1087年)には出羽国俘囚長・清原氏内紛収めて後三年の役声望高め頼信流の河内源氏東国足掛かりを持つようになった河内源氏このように武名上げそれまで清和源氏庶流であった地位から嫡流地位事実上占めるに至ったこのような興隆時の権力者白河法皇警戒招き河内源氏抑圧された(ただし、研究の進展見直しがされている)。 河内源氏摂津源氏のように京都活動舞台にせず板東拠点としたのは、兄の源頼光源頼親藤原道長側近として仕えたのに対し頼信上野介常陸介など遠方収入少な東国受領となっていたからである。しかし、上記のように武功重ね義家、義綱(美濃守)、義光(新羅三郎兄弟の頃には清和源氏最大勢力となっていた(ただし、義家と義綱の仲は悪く、義綱は中央昇進重ねた。)。この頃源氏庶流は国の下級官人辞し地方荘官などとなることにより勢力築いていった。 しかし、義家晩年次男義親朝廷反抗したため義家苦境にたたされ、河内源氏陰り見え始める(義家長男早世していた)。また、弟の新羅三郎義光常陸源氏甲斐源氏の祖)と四男の荒加賀入道義国(上野源氏下野源氏の祖)が嘉承元年1106年)に常陸合戦引き起こし両者勅勘受けてしまう。さらに天仁2年1109年)、義家死後家督継承し栄名誇った義家三男源義忠暗殺され当初事件主犯とされた弟の義綱(美濃守)が、白河法皇の命を受けた源義親の子源為義源光国美濃源氏)の討伐受けて壊滅、また事件真犯人新羅三郎義光であったことが明らかになるなど、河内源氏内部分裂明白になり、権勢はしばらく失墜した。この背景には、河内源氏拠り所にしていた摂関家摂関政治から、白河法皇院政への移行があった。

※この「源氏一族の争い」の解説は、「清和源氏」の解説の一部です。
「源氏一族の争い」を含む「清和源氏」の記事については、「清和源氏」の概要を参照ください。

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