源氏への「復姓」時期について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 11:18 UTC 版)
「徳川家康」の記事における「源氏への「復姓」時期について」の解説
家康は永禄4-6年ごろの文書では本姓として「源氏」を使用しており、永禄9年(1566年)に「徳川」を名乗った際に藤原氏に改姓しているが、氏を源氏に復姓した時期については、はっきりしない。かつては近衛前久による年代不明の書状が「(改姓は)将軍望に付候ての事」としていることから、関ヶ原の戦いの勝利後、征夷大将軍任官のため吉良氏系図を借用して系図を加工し、源氏に戻したというのが通説であった。 しかし米田雄介が官務壬生家の文書を調査したところ、天正20年9月の清華成勅許の口宣案において源氏姓が用いられているなど、秀吉生前からの源氏使用例が存在している。笠谷和比古は、天正16年4月の後陽成天皇の聚楽第行幸の様子を収めた『聚楽行幸記』には、家康が「大納言源家康」と誓紙に署名しているという記述があることから、源氏への復姓は少なくともこの時期からではないかと見ている、 他に天正14年(1586年)、安房国の里見義康(新田一族)に送った同年3月27日付の起請文では、徳川氏と里見氏は新田一族の同族関係にあることを主張している。ただし、これ以降も「藤原家康」名義の書状が現存しており、この起請文は偽文書の可能性が指摘されている。また、天正14年には藤原氏を用いた寺社への朱印状も残っている。天正19年(1591年)、家康が発給した朱印状で姓が記されているものは「大納言源朝臣」ないし「正二位源朝臣」と記されており、藤原氏は使用されていない。 笠谷は家康が源氏復姓の時期が将軍であった足利義昭の出家時期と重なっており、左馬寮御監・左近衛大将など将軍家しか許されてこなかった官をうけていることから、“豊臣政権下で家康はすでに源氏の公称を許され将軍任官の動きが公然化し、豊臣関白政権の下での徳川将軍制を内包する形での、権力の二重構造的な国制を検討していた”と記述している。阿部能久は、天正16年は足利義昭が正式に征夷大将軍を辞任した年であり、豊臣秀吉は家康が将来の「徳川将軍体制」を見越して源氏改姓をしたことを認識しつつ、それを逆手に取って関東地方を治めさせたと捉え、さらに清和源氏の正統な末裔である足利氏の生き残りと言える喜連川家に古河公方を再興させることで、家康と喜連川家+佐竹氏など関東諸大名との間に一定の緊張関係をもたらすことで家康の野心を封じ込めようとしたと推測している。
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