港の隆盛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 07:38 UTC 版)
江戸時代には紀州藩の代官所や紀州侯別邸、目付役所、物頭役所が白子に置かれ、伊勢商人もここを重視した。伊勢商人は伊勢国・尾張国・三河国の木綿輸送を確保・統制するため江戸で大伝馬町組と白子組を結成し、白子の積荷問屋や廻船問屋を支配した。天明年間から文化年間の白子組の千石船数は25隻に及んだという。またこれら3国以外にも大和国など内陸から木綿が関東地方へ送られ、関東からは九十九里浜の干鰯や雑貨が届けられた。白子の港は遠浅で千石船は沖への停泊を余儀なくされ、決して使い勝手の良い港ではなかったが、この港が発展できたのは紀州藩と伊勢商人によるところが大きい。特に白子組の竹口家は紀州藩の御用旗や提灯を掲げて江戸へ入港することを許されていた。港の維持には紀州藩からの補助金と、入港税で賄われた。 歴史上有名な事件としては、大黒屋光太夫のロシア漂着がある。光太夫以下16名を乗せた神昌丸は天明2年(1782年)に江戸に向けて白子から出港したが、暴風雨に巻き込まれ、アリューシャン列島・アムチトカ島まで流されてしまった。光太夫はシベリアを横断して当時の首都・サンクトペテルブルクまで行き、ロシア皇帝エカチェリーナ2世から帰国の許しを得た。寛政4年(1792年)にアダム・ラクスマンに伴われて根室へ上陸、10年ぶりに日本への帰国がかなった。この事件を題材としたのが、井上靖の歴史小説『おろしや国酔夢譚』である。
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