海外におけるリトアニア独立回復に向けた活動
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「リトアニア解放最高委員会」の記事における「海外におけるリトアニア独立回復に向けた活動」の解説
VLIKは1944年にベルリンで活動を再開し、赤軍が侵攻するにつれてヴュルツブルク、そしてロイトリンゲンへと場所を移した。1955年に活動拠点をニューヨークへ移すまでのあいだ、ミーコラス・クルパヴィチュスが議長を務めた。VLIKは15の異なる政治団体を統一したものであったためメンバー間の意見の相違は大きく、それが決定を下す上で妨げとなった。 ポツダム会談が開かれる前の1945年7月10日、VLIKはトルーマン・アメリカ大統領およびチャーチル・イギリス首相に対して覚え書きを送付し、その中でソ連によるリトアニア占領を認めず、ソ連軍のリトアニアからの撤退とリトアニアの独立を支援するよう彼らに求めた。他にも、ソ連当局によるリトアニア人に対する人権侵害についての覚え書きが国際連合や各国の外交官、研究者、ジャーナリストに送られた。VLIKはさらに通信社「ELTA」を再建し、ラジオ放送も行った。VLIKはリトアニア国内にいる武装パルチザンとも連絡をとろうとしたが、わずかにユオザス・ルクシャとしか連絡を取ることができなかった。 VLIK自体はリトアニア国会(セイマス)の役割を果たすものとしており、リトアニアの亡命政府と称していた。しかし、諸外国からリトアニアの亡命政府として承認されることはなかった。また、戦前にリトアニアの在外公館で働いていたリトアニア人外交官はVLIKの指揮下に入るとされた。リトアニア共和国最後の大統領アンタナス・スメトナからリトアニア外交部長に任命された外交官、スタシース・ロゾライティスはこれに異議を唱え、両者の対立は以後数十年にわたって続いた。国際承認を得られるリトアニア亡命政府が作られなかった原因は、この両者の対立にある。リトアニア国民の代表とされるVLIKとリトアニア政府の代表とされる外交官とのあいだの対立を解消しようとする試みも見られた。最初の試みは1946年7月、スイスのベルンで行われた会談にて行われた。このときは執行評議会を設置することが決められたが、実際に設置されることはなかった。続いて1947年8月、フランス・パリで二度目の会談が開かれた。 リトアニアから亡命した者が難民キャンプからアメリカ合衆国へと移るようになると、VLIKも1955年に本部をニューヨークに移した。その後VLIKの影響力は低下し、活動家らもすぐに冷戦を終結させる方法はないことに気付かされた。VLIKの目的は、ソ連によるリトアニア占領を認めず、鉄のカーテンの向こう側でのできごとを知らせることになった。そのために、米英両政府との連絡もとり続けた。 1980年代になると活動拠点をワシントンD.C.に移した。 VLIKは、リトアニア民族解放のための困難な任務を担い、半世紀にわたってその活動を続けてきたが、リトアニアが1990年3月11日にソ連からの独立回復を宣言すると、その活動を終了した。
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