洗礼と結婚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 15:55 UTC 版)
「ヴワディスワフ2世 (ポーランド王)」の記事における「洗礼と結婚」の解説
「ヤドヴィガ (ポーランド女王) 」も参照 ヨガイラのルーシ人の母ユリアナは彼にドミトリイ・ドンスコイの娘ソファイアと結婚するようしきりに勧め、ドミトリイはヨガイラに結婚に際して正教に改宗するよう要求した。しかし、ドイツ騎士団は正教会を異教徒よりは僅かにまともな分離派と見做しており、この提案はリトアニアへの十字軍を中断させる効果があるとは考え難かった。そのためヨガイラは、カトリック教徒となり、11歳の女王ヤドヴィガと結婚するというポーランドの提案を受け入れた。 マウォポルスカ(英語版)の貴族はヨガイラに結婚の受諾を願い出たが、その背景には多くの思惑が存在した。ポーランドの貴族(シュラフタ)はヨガイラの婚姻によって自らの特権を強化し、ヤドヴィガの以前の婚約者であるウィルヘルムの母国オーストリアからの干渉を防ごうと考えていた。ほか、リトアニアからの脅威を無くし、ポーランドが肥沃なハールィチ・ヴォルィーニ大公国の領域を確保する意図も挙げられる。 1385年8月14日にクレヴォ城にてヨガイラはクレヴォ合同 (クレヴァの合同)を批准した。クレヴォ合同ではヤドヴィガと結婚したヨガイラがポーランド国王となること、ヨガイラと彼の臣民が洗礼を受けて領地をポーランド王国に編入すること、東ポメラニアなどのポーランドがドイツ騎士団に奪われた領土の奪還が確認された。 1386年2月15日にヨガイラはクラクフのヴァヴェル大聖堂にて正式に洗礼を受け、「ヴワディスワフ」ないしそのラテン語での表記を公式に用いるようになった。洗礼の儀式から2週間後の3月4日にヨガイラはヤドヴィガと結婚し、大司教ボドザンタによってヴワディスワフ2世・ヤギェウォとして戴冠する。ヴワディスワフ2世は法的にはヤドヴィガの母エリザベタ・コトロマニッチの養子として扱われ、ヤドヴィガからの王位の継承権を獲得した。クレヴォ合同とそれに続く改宗は、100年以上にわたってリトアニアへの侵攻を続けるドイツ騎士団、リトアニア内部の敵であるヴィータウタスに対抗する、ヴワディスワフ2世にとっての最後の賭けだった。 近隣の国家の中には新たな大国が誕生したことを感じ取ったものもあり、ドイツ騎士団長エルンスト・フォン・ツェルナーはヨガイラの洗礼式への招待を断り、モルダヴィアの公ペトル1世はヴワディスワフ2世が即位したポーランドの宗主権を認めた。また、王族の洗礼は、最終的なリトアニアの改宗の始まりであるリトアニアでの川での大洗礼と同じく、ヴワディスワフ2世の廷臣とリトアニア貴族の大規模な改宗を引き起こした。 異教と正教会の儀式は農民の間に根強く生き残るが、民族的なリトアニアの貴族の多くがカトリックの改宗者となり、国王の改宗と政治的な意図はリトアニアとポーランドの両方に長らく影響を及ぼし続けた。
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