洗礼か追放かの選択
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/15 02:25 UTC 版)
1235年2月、トゥデラは政府に対する反乱の舞台となった。多くのユダヤ人が負傷し、一部は民衆の憤怒の犠牲となった。平和が戻ったのは、テオバルド1世と市議会の条約があった間だけだった(Kayserling, l.c. pp. 200 et seq.)。 1321年の羊飼い十字軍(en)がトゥデラを巻き込んだ。およそ30,000人のどん欲な殺人者らがトゥデラのユダヤ人を求め、その多くを殺害した。そのすぐ後、500人(または300)がユダヤ人を驚愕させようと試みた。彼らは待ち伏せしていた騎士によって成敗された。この危機からユダヤ人を避難させるため、摂理への感謝の気持ちから、裕福なユダヤ人らは迫害で傷ついた同じユダヤ教徒の状況を緩和すべく努力した。彼らは、穀物と油を石造りの住宅へ集め、3年もの間貧しいユダヤ人らを支援した。1328年の大迫害の間、6,000人のユダヤ人がナバラで死に追いやられた。そのうちトゥデラのユダヤ人は逃げなかった。 1492年、アルハンブラの法令(en)により、カスティーリャ女王イサベルとアラゴン王フェルナンドは自分たちの領土内からユダヤ人を追放した。トゥデラのユダヤ人人口は、スペイン各地からの避難民が到着したことで増加した。 1498年、カトリック両王の影響下にあるナバーラ王フアン3世は全ユダヤ人に対し、キリスト教の洗礼を受けるか、ナバーラを去るかの勅命を出した。トゥデラでは、180世帯が洗礼を受けた。改宗者はコンベルソと呼ばれ、マラーノ(隠れユダヤ教徒)ではないかと疑われた。彼らの多くは数年ののちにフランスへ移住していった。コンベルソたちの名前はラ・マンタと呼ばれた大名簿の中に載せられて発行された。トゥデラの大聖堂の本堂内にコンベルソらの名が晒された。トゥデラでは、現在も公文書の中にヘブライ語文書を一部保存している。そしてユダヤ人共同体と関連した建物がいまも残っている。
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