治安警察法第5条改正運動
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「新婦人協会」の記事における「治安警察法第5条改正運動」の解説
「治警五条改正運動」あるいは「治警第五条修正運動」などとも呼ばれる。 同運動より先立つ1890年(明治23年)より公布されていた集会及政社法により、それまでは自由であった女性の政党結社への加入及び政治演説会への参加が禁止されていた。集会及政社法は、1900年(明治33年)に治安警察法と改称され、同法5条1項で女性の結社権(政党加入の権利)、2項で集会の自由(政治演説会に参加ないし主催する自由)を引き続き禁止した。1905年(明治38年)から1909年(明治42年)まで、遠藤清子を始めとする平民社に集う女性達により(平民社は1905年10月4日解散)、治安警察法5条改正を求める請願が、連年繰り返し議会に提出されるものの法改正には至らなかった。 新婦人協会は、この治安警察法5条改正運動を引き継ぎ、結成と同時に法改正に関する請願運動を開始。1920年(大正9年)2月には、2,057名の署名を集め、法改正を求める請願書を第42帝国議会貴族院及び衆議院へ提出。同年2月21日には、東京神田で治警法5条をテーマに新婦人協会第1回講演会を開催、市川房枝、山田わか、大山郁夫らが講演して法改正の必要性を世論に訴えた。さらに市川と平塚らいてうの二人は、治安警察法5条改正を法律案として提出するよう議員への働きかけも行なったが、2月26日に衆議院解散となる。 1920年(大正9年)の総選挙では協会支持候補の16名が当選を果たし、7月の第43議会へ治安警察法改正案を提出するも衆議院で審議未了。続く第44議会では、1921年(大正10年)2月に衆議院本会議で法案可決、貴族院も委員会可決となるが、議会最終日の3月26日の貴族院本会議において、貴族院議員藤村義朗男爵の反対演説に遭い否決となる。 1922年(大正11年)2月の第45議会衆議院に改正案再上程。2月9日には坂本真琴、奥むめおら新婦人協会幹部(この頃、平塚と市川は協会運営から退いていた)と、協会の支援者・議員が協議し、治安警察法法5条2項削除に目標を絞り込んだ上で運動を進める事を決定。2月17日夜には、坂本と奥の両名が反対派の藤村を東京中野の邸宅に訪ねて談判に及び、改正案への支持を取り付ける。その後も坂本らは、貴・衆両院各議員への陳情を連日繰り返し、3月18日に衆院本会議で改正案可決、貴族院へ送付となる。貴族院では3月20日に改正案上程、委員会付託。3月23日に委員会を通過、3月25日の議会最終日、閉会間際の午後11時50分、貴族院本会議において治安警察法5条改正案はようやく可決、成立する(5月10日公布施行)。 なお、坂本真琴により、法改正に至るまでの緊迫した議会工作の様子が、新婦人協会機関誌『女性同盟』誌上で詳細に報告されている。
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