没官田・没官領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/19 02:34 UTC 版)
没官田(もっかんでん)とは、没官処分によって官に没収された田地のことである。後に荘園などの所領単位での没収が行われるようになると没官領(もっかんりょう)という呼称が用いられるようになった。 『延喜式』によれば、没官田は輸地子田として経営されたが、時には賞賜や寺社への施入などの対象に用いられることが多かった。 橘奈良麻呂の乱の際に田地の没官が行われたことが知られ(「越中国礪波郡石粟村官施入田地図」)、『続日本紀』にも神護景雲元年(767年)に没官田を四天王寺に施入したことが記されている。後に藤原種継の暗殺事件によって没官された故大伴家持の田地が大学寮に与えられて勧学田とされたが、後に家持の無罪を訴えた伴氏(大伴氏)宗家の伴善男が返還を強引に実現させた。ところが応天門の変で今度は善男が所有した財産が没官され、平安京の道路整備の財源などに用いられた(『三代実録』)。没官された善男の財産は墾田・陸田などの田地、山林、庄家稲、製塩に必要な塩浜及び塩釜などによって構成されていたが、その中に含まれていた旧勧学田が穀倉院に与えられたため、大学寮と穀倉院の間で紛争が起き、後の学問料設置のきっかけとなった。 平安時代後期には謀反・大逆以外にも重大な犯罪を理由とした没官処分によって荘園などの所領が没収され、「没官領」という呼称が用いられるようになる。また、没官領は朝廷及びその機関のみならず、没官対象者の追討に活躍した者への恩賞となる場合もあった。保元の乱の際の藤原頼長・平忠正らの没官領40ヶ所が後院領となり、源平合戦時の平家没官領500ヶ所は当初は源義仲に与えられその没落後は源頼朝に与えられた。承久の乱後には後鳥羽上皇及び彼らに仕えた貴族・武士らの没官領5000ヶ所が合戦に参加した御家人らに与えられ、地頭として派遣された(新補地頭)。 もっとも、没官領の実態は没官された者が持っていた所職(荘園内の役職とそれに付随する諸権利)であるため、同じ没官領でも本家職から下司・公文まで様々な内容を有していた。
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