江戸時代 開国期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 06:17 UTC 版)
安政3年 (1856年) 当時国内唯一の貿易港であった長崎の出島で長崎商人 大浦慶がイギリス人貿易商ウィリアム・オルトと日本茶の取引を開始し、嬉野を中心に八女を含む九州の茶がアメリカへ輸出されると、当地方の茶も貿易品として注目されるようになり、文久三年(1863年)にはトーマス・ブレーク・グラバー(以下グラバーとする)が長崎にて「筑後茶」を米国に輸出する、直接取引を開始した。 1861年ジャーディンマセソン商会長崎代理店としてグラバーが開いたグラバー商会は、来日当初 経営活動の中心は日本茶の輸出であり、アヘン戦争で疲弊した清国の貿易代替地として、茶や和紙等といったアジア的な商材輸出を中心に行っていた。八女福島地区の商家に和紙を買い付けに来た記録も残っている。 それと同時に安政6年(1859年)江戸幕府が、箱館、新潟、横浜、神戸、長崎を開港すると、日本からアメリカに輸出する緑茶も年々増加傾向をたどり、当地方でも緑茶(主に日乾製や釜炒製)の製品化を目指した取り組みが行われるようになった。それにより八女地方東部の山々にはいたるところに茶樹が見られるようになった。 しかしこの時期も茶の栽培は、近代的な茶園というかたちではなく、茶樹を山に植えているだけの粗放なものであったため、茶葉の生産も栽培というよりむしろ採取の形で行われていた。製造技術も旧来からの未熟な焙炉や天日干しを利用した黒製法や釜炒り製法で行われ、特に輸出を急ぐあまり日光乾燥や日陰干しの際に十分乾燥されないまま出荷された黒製茶は、色や香りが悪いため、輸入国のアメリカでは大きな問題となっていった。
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