江戸時代、毛利氏の御船手組の拠点として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/09 08:37 UTC 版)
「三田尻」の記事における「江戸時代、毛利氏の御船手組の拠点として」の解説
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの後、毛利氏の所領の内、本拠であった安芸国も取り上げられ、新たな居城を築く必要に迫られた。この時に毛利氏当主・毛利輝元は、周防国山口・周防国三田尻・長門国萩に築城すべく、徳川家康に許可を求めた。徳川家康は毛利氏封じ込めの意図もあり、大内氏以来の周防国の中心であった山口、瀬戸内海に面した天然の良港であった三田尻への築城は認められず、萩城の築城を許可し、毛利氏は山陰に押し込められた。 しかし、天然の良港であった三田尻には、戦国時代に瀬戸内海で活躍した毛利水軍、村上水軍が御船手組に組織改編されて、1611年(慶長16年)下松よりこの三田尻に移り住んだ。御船手組の根拠地となったことで、根拠地としての御船倉の建造や町割りなど、三田尻の整備が進められた。御船手組が居住した警固町、水夫や船大工が居住した新丁方(しんちょうがた)といった当時の地名は現在も残っている。 江戸時代初期には、海路で参勤交代へ向かう出発地となった。1654年(承応3年)に毛利綱広が萩往還を造った際に、三田尻御茶屋を築造するなど、大いに栄えた。しかし、後に参勤交代が海路から陸路に変更されるに及び、その役割は限定的なものとなった。それでも長州藩7代藩主毛利重就は、隠居後にこの三田尻御茶屋に住むなど、三田尻は要衝として重視された。
※この「江戸時代、毛利氏の御船手組の拠点として」の解説は、「三田尻」の解説の一部です。
「江戸時代、毛利氏の御船手組の拠点として」を含む「三田尻」の記事については、「三田尻」の概要を参照ください。
- 江戸時代、毛利氏の御船手組の拠点としてのページへのリンク