江戸前ずしの誕生
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江戸前握りずしの創案者は、両国は「與兵衛鮓(よへいずし)」の華屋與兵衛とも安宅の「松之鮨(まつのずし)」、堺屋松五郎ともいわれる。文献的には文政12年(1829年 1827年作句)『柳多留』に「妖術という身で握るすしの飯」とあるのが初出である。 與兵衛のひ孫、小泉清三郎『家庭 鮓のつけかた』(1910年(明治43年))158-159ページに與兵衛の孫、文久子『またぬ青葉』(手写本、現在所在不明、震災で焼失とも)の引用があり、要約すると以前にも握りずしを試みた者はいたが、握った後に笹で仕切って箱に詰め数時間押しをかけるすしで、「翁(初代與兵衛)は此の製方の悠長なるを厭い(中略)握早漬を工夫せし也」とのことである。與兵衛が「握早漬(握りずし)」を売り出した年は、諸説あるが文政7年(1824年)あたりとされる。 文政13年(1830年)喜多村信節『嬉遊笑覧』に「文化(1804-1817年)のはじめ頃、深川六軒ぼりに、松がすしが出来て、世上すしの風一変し」とあるが、この「一変」には二つの解釈ができる。ひとつは握りずしを創案し、かつてのなれずしとは違う握りずしが江戸中に広がって一変したという解釈。もうひとつは、これまでにない高額のすしを売り出し、市中のすし屋も追従したために一変したという解釈。ちなみに「松鮨」とも「松が鮨」とも言われたが、「安宅の松」と主人の名、松五郎にちなんだ通称であり、本来の屋号は「砂子鮨(いさごずし)」といった。後に屋号の方も「松之鮨」と改めたとのことである。いずれにしろ握りずしは文政年間(1818-1831年)には完成をみて、「與兵衛鮓」、「松之鮨」は最初の大成者となった。 こうして誕生した握りずしは、屋台料理として江戸っ子にもてはやされて瞬く間に江戸市中に拡がった。箱寿司が主体であった大坂も1892年(明治25年)には大半が握り寿司の店に変わったと記録されており、天保(1831-1845年)には名古屋にも広がるなど、日本全国へ拡がっていった。この寿司は粕酢(赤酢)と塩のみで合わせ酢を作り砂糖を使用しないものであった。かつては米酢が使用されていたが、後に広まった粕酢は1804年に江戸へ旅したミツカン初代中野又左衛門が江戸に向けて販売した事がきっかけと主張している。
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