江戸初期研究の混乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 14:53 UTC 版)
『見聞集』の成立時期が寛永期まで下ることは、既に山崎美成『海録』所載の文政11年(1828年)の喜多村節信の識語に指摘されていたが、擬態であることは明らかにされておらず、明治期以降でも成立時期を慶長19年とする解釈が一般的で、例えば1928年に三田村鳶魚は同好家を集めて開催した輪講の場で、作中に「慶長19年に書いたという証拠がある」として記載どおりの成立を強く主張しており、その場で異論を述べる人も無かった。 しかし、成立時期を慶長19年と解釈したまま『見聞集』を江戸初期の文化・風俗や出来事の年代を比定するのに使用したために、矛盾・混乱が生じる例が多く、このため『見聞集』を後世、別人が三浦浄心の名を騙って著わした偽書であるとする見方が少なくなかった。 1987年に大澤学は、三浦浄心の著作中における、作品当時が慶長19年との記載は、作品の成立時期を翌年の大阪夏の陣以前と見せかけることによって「豊臣秀頼の命を助けて下さった家康公は慈悲深いお方だ」といった言辞が皮肉と受け取られないようにみせかけ、また作品の成立時期を古くみせかけることで作者に対する幕府の干渉を免れる意図があり、実際の作品成立時期は寛永18年(1641)より少し前と主張した。水江漣子も1988年の雑誌『日本歴史』掲載稿「歴史手帖 三浦浄心について」において、大澤説を支持している。 しかし最近でも、作品の成立時期を慶長期とみなして江戸初期研究の史料として用いている例は少なくない。
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