歴史及び文化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 18:43 UTC 版)
詳細は「カバルダ・バルカルの歴史(英語版)」を参照 バルカル人の出自は確実はわかっていないが、フン族やハザール、ブルガール人、アラン人、キプチャク(クマン)、チェコ人、タタール人等の民族から分かれたのではないかとする様々な仮説が出ている。昨今の学者は彼らの出自について、ペルシャ語を話すアラン人やテュルク語を話す諸民族、なかんずく黒ブルガールや西キプチャクなどを含む、様々な文化の複合集団だったのではないかと推定している。バルカル人の文化は近東や地中海世界、カフカス、ロシアの物に関連付けられている。モンゴル帝国の成立以前、すなわち13世紀以前、バルカル人はアラン人の民族連合の一部に属していたが、モンゴル帝国の侵攻の過程で中央カフカスの谷に退却した。 伝承によると、バルカル人は元々バルカル谷の盆地に住んでおり、そこでは狩人のマルカルが成功を収め、ミサカと言う彼の付き人とマジャルのバシアトが彼に付き従った。この谷に関する最も古い文献は14世紀に記されたグルジアの南オセチア共和国ツヒンヴァリにある聖母被昇天教会の黄金十字に刻まれている碑文であり、バシアニアンの文字が見える。より最近では、ロシアで証拠が出てきており、バシアンやバルザル等と記されている。 伝説や年代記ではティムールがエルブルース山を上って侵入してきたとされている。また、バルカル人は西ヨーロッパやトルコの年代記にも16世紀、17世紀に登場し、17世紀から18世紀にかけてはカバルド人(英語版)と共にグルジア人、ロシア人との関係性が説明された。1827年、バルカル人はついにロシア人となり、彼らの伝統は人質の下に置かれた。19世紀から20世紀にかけてはバルカル人の一部がトルコやシリアへと移住し、ロシア革命によってソビエト連邦が1920年に成立すると、バルカル人はソビエト連邦の一部となり、カバルダ・バルカル自治ソビエト社会主義共和国となった。1944年初頭、ヨシフ・スターリンがナチス・ドイツと連合したバルカル人に捕まると全人口が中央アジア、特にカザフ・ソビエト社会主義共和国へと追放された。そして、この地はカバルダ自治ソビエト社会主義共和国(英語版)に改名されたが、1957年に名称が戻ると同時に多くのバルカル人が帰還した。
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