武士階級の台頭と杉原紙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 03:15 UTC 版)
中世に入ると、公家が地方に所有する荘園の支配権を、武士階級(守護・地頭)が簒奪することで公家と武家の社会的地位の逆転が起きたが、それは紙の動向にも反映された。律令制度に基づく紙屋院への紙原料の貢納は衰微し、紙屋院はもっぱら中古紙を漉き直しての再利用(宿紙)を行うようになり、高級紙としての紙屋紙はほとんど姿を消した。また、紙の産地や原料の産地を武士階級がおさえることで、高級な「厚い紙」を使うという特権は、公家から武家のものになった。 杉原紙は、承久年間に流布した。『武家年代記』、『鎌倉年代記』、『北条九代記』によると、鎌倉幕府が成立から約30年後の1219年(承久元年)に「杉原紙」が鎌倉幕府で使われるようになった。杉原紙は幕府の公用紙となり、武家階級にも文書用紙として広まった。鎌倉時代から室町時代を通じて杉原紙が全国の武士階級へ普及していくのにともなって、「杉原紙」は全国で生産されるようになった。その結果として近世・近代には「杉原紙」の原産地がどこなのかわからなくなってしまった。 室町時代初期の書札礼である『書札作法抄』では、武家に手紙を出す際には「杉原紙」を用いなければならないと定められており、武士階級の間で定着していたことが示されている。将軍や執権など、武士階級の中で上位にある者が下位の武士へ送る文書を「御教書」と呼び、これにも杉原紙が用いられたことから「御教杉原」「御教書杉原」という表現が頻繁に登場する。 一、(中略)武家には杉原ならでは文をかかぬこと也。引合、檀紙などにては努々(ゆめゆめ)書くべからず。但し女性のもとへの文には、又引合、檀紙にて書て、杉原にては書くべからず、女性も又杉原にては文書く事なし。― 『書札作法抄』(『和紙つくりの歴史と技法』p.105より) 武家は杉原紙を用い、公家や女性は檀紙や引合紙を用いるというしきたりは鎌倉時代に形成された。その結果として杉原紙を生産が各地に広がったのだが、必ずしも需給が見合ったわけではなく、特に建武の新政以降、公家が杉原紙を用いたり、武家が檀紙や引合紙を用いた例はある。江戸期の『玉勝間』が伝えるところでは、1343年(康永3年)に洞院公賢が自身の日記『園太暦』の中で、左大臣辞任の際に、書札礼に反して杉原紙に辞表を書いたことについての弁解を行った。
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