橘諸兄政権の政治とは? わかりやすく解説

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橘諸兄政権の政治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/21 16:20 UTC 版)

橘諸兄」の記事における「橘諸兄政権の政治」の解説

橘諸兄太政官最高位となったのは天平9年(737年)である。この年猛威振るった天然痘によって、政権中枢にいた右大臣藤原武智麻呂をはじめ参議藤原房前参議藤原麻呂参議藤原宇合藤原四兄弟がすべて病死し大納言だった諸兄太政官の主班となったこの年天然痘流行は非常に大規模なもので、日本人口の25-35%あるいは30-50%が失われた聖武天皇光明皇后当面政治的課題疫病損なわれ国力回復であり、光明異父兄であり、藤原不比等の娘を妻として藤原氏とも親和的皇族諸兄首班据えて皇族・貴族が一体となった挙国一致政治体制をとった。聖武天皇諸兄の関係は、聖武天平12年諸兄相楽別業行幸して宴を行い退位後天平勝宝4年(752年)も行幸するなど非常に親密であり、元正太上天皇とも天平15年難波宮複数回宴を催すなど良好な関係を保っていた。 諸兄政権は、国力回復のためにまず郡司定員削減郷里制廃止など地方行政簡素化を行うと同時に東国農民負担軽減目的として防人廃止し、また諸国兵士健児停止し公民負担軽減した。これらの兵士当時軍事的緊張にあった新羅備えたものであったが、軍備維持する余裕なくなって新羅対す強硬策は転換せざるを得なくなった。更に天平15年には農民人口減少荒廃した土地再開発を促べく墾田永年私財法発布した併せて国司郡司による善政督励された。また天平12年東国行幸から17年平城京遷都(元の平城京戻った)まで、聖武天皇次々新都建設して遷都繰り返した彷徨五年の期間中聖武紫香楽宮行幸した際、天皇留守守って政治全うすることもしばしば行った。 諸兄致仕する天平勝宝8年(756年)まで太政官最上位であったが、上記のように孝謙天皇即位した天平勝宝元年(749年)に光明皇后皇太后になったことに際して皇后宮職から再編され紫微中台長官(紫微令)に藤原仲麻呂就任して諸兄と並ぶ権力手に入れた諸兄政権時代は「現実容認的な方針」で運営されたが、天平勝宝4年頃から官人綱紀引き締め新羅対す高圧的な外交姿勢復活しこの頃政治実権藤原仲麻呂移行したことが見て取れる天平勝宝4年(752年)の大仏開眼には諸兄参加して舞楽の鼓を打ったが、天平勝宝6年(754年)唐から渡ってきた鑑真右大臣藤原豊成大納言藤原仲麻呂以下多数官人東大寺拝礼したときに左大臣諸兄参加しておらず、隠居に近い状態にあった思われる

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