橘諸兄政権の政治
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橘諸兄が太政官の最高位となったのは天平9年(737年)である。この年猛威を振るった天然痘によって、政権の中枢にいた右大臣藤原武智麻呂をはじめ参議藤原房前、参議藤原麻呂、参議藤原宇合の藤原四兄弟がすべて病死し、大納言だった諸兄が太政官の主班となった。この年の天然痘の流行は非常に大規模なもので、日本人口の25-35%あるいは30-50%が失われた。聖武天皇と光明皇后の当面の政治的課題は疫病で損なわれた国力の回復であり、光明の異父兄であり、藤原不比等の娘を妻として藤原氏とも親和的な皇族の諸兄を首班に据えて皇族・貴族が一体となった挙国一致の政治体制をとった。聖武天皇と諸兄の関係は、聖武が天平12年に諸兄の相楽別業に行幸して宴を行い、退位後の天平勝宝4年(752年)も行幸するなど非常に親密であり、元正太上天皇とも天平15年に難波宮で複数回宴を催すなど良好な関係を保っていた。 諸兄政権は、国力の回復のためにまず郡司定員の削減や郷里制の廃止など地方行政の簡素化を行うと同時に、東国農民の負担軽減を目的として防人を廃止し、また諸国の兵士・健児を停止し公民の負担を軽減した。これらの兵士は当時軍事的緊張下にあった新羅に備えたものであったが、軍備を維持する余裕がなくなって新羅に対する強硬策は転換せざるを得なくなった。更に天平15年には農民人口の減少で荒廃した土地の再開発を促べく墾田永年私財法を発布した。併せて国司郡司による善政も督励された。また天平12年の東国行幸から17年の平城京遷都(元の平城京に戻った)まで、聖武天皇が次々に新都を建設して遷都を繰り返した彷徨五年の期間中、聖武が紫香楽宮へ行幸した際、天皇の留守を守って政治を全うすることもしばしば行った。 諸兄は致仕する天平勝宝8年(756年)まで太政官の最上位者であったが、上記のように孝謙天皇が即位した天平勝宝元年(749年)に光明皇后が皇太后になったことに際して皇后宮職から再編された紫微中台の長官(紫微令)に藤原仲麻呂が就任して諸兄と並ぶ権力を手に入れた。諸兄政権時代は「現実容認的な方針」で運営されたが、天平勝宝4年頃から官人の綱紀引き締めや新羅に対する高圧的な外交姿勢が復活し、この頃に政治の実権が藤原仲麻呂に移行したことが見て取れる。天平勝宝4年(752年)の大仏開眼には諸兄も参加して舞楽の鼓を打ったが、天平勝宝6年(754年)唐から渡ってきた鑑真を右大臣藤原豊成大納言藤原仲麻呂以下多数の官人が東大寺に拝礼したときに左大臣の諸兄は参加しておらず、隠居に近い状態にあったと思われる。
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