橘諸兄政権と聖武天皇とは? わかりやすく解説

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橘諸兄政権と聖武天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 08:29 UTC 版)

奈良時代」の記事における「橘諸兄政権と聖武天皇」の解説

その藤原四兄弟737年天平9年)に天然痘流行相次いで死亡すると、皇族出身橘諸兄下道真備(のちの吉備真備)や僧玄昉参画させて政権担った。これを不満とした宇合の長男藤原広嗣は、740年天平12年)、真備らを除くことを名目に、九州挙兵したが、敗死した(藤原広嗣の乱)。この反乱による中央の動揺はなはだしく聖武天皇は、山背の恭仁、摂津難波近江紫香楽転々と都をうつした相次ぐ遷都による造営工事もあって人心はさらに動揺し、そのうえ疫病天災つづいたので社会不安はいっそう高まったかねてより厚く仏教信仰していた聖武天皇鎮護国家思想により、社会動揺しずめよう考え741年天平13年)に国分寺建立の詔743年天平15年)には盧舎那大仏造立の詔発した。これにより東大寺大仏つくられ752年天平勝宝4年)に完成女帝孝謙天皇聖武太上天皇臨席のもと、盛大な開眼供養おこなわれた

※この「橘諸兄政権と聖武天皇」の解説は、「奈良時代」の解説の一部です。
「橘諸兄政権と聖武天皇」を含む「奈良時代」の記事については、「奈良時代」の概要を参照ください。

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