横山政権と安政大一揆
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黒羽織党の退場後は、年寄の横山隆章と算用場奉行の芝山平右衛門らが権力を握った。この横山隆章政権は黒羽織党と較べ、門閥守旧派による反改革と捉えられている。財政面では、藩内外の豪商から御用銀を上納させるなど、黒羽織党以前の旧来策を継承している。安政3年(1856年)には、家中救済のため銀札10,000貫を増発し、藩士への貸銀を許可した。しかし安政年間には、安政の大地震などの災害復興費用や、幕府および朝廷への上納金、藩主の慶弔費など、藩の臨時出費が多く、藩士や町民からも借上銀を命じる事態に陥った。こうした負担増が米騒動を引き起こす要因となる。 横山政権は洋式砲術を習う壮猶館を設立し、安政3年(1856年)には弓組を廃して足軽に砲術を修練させるなどの海防策を採用した。翌年には幕府に対しゲベール銃600挺の払い下げを請願している(ただしゲベール銃は無施条の先込め銃であり、この時期すでに旧式と見なされていた)。このように横山政権の海防策は、意気込みこそ感じられるものの、しょせん旧態依然とした軍制改革であり、幕府の改革の後追いに過ぎなかった。藩主斉泰自身もかなり保守的な性格であり、西洋武術を習っても皇国の美風を失うべからずとして、洋式足並み(行進)や太鼓による稽古を禁止するなど、軍制の改革を妨げた。 そして、安政5年2月26日(1858年4月9日)午前1時ごろ、越前北部から飛騨・信濃にわたる大地震(飛越地震)が発生した。金沢でも震災が発生し、金沢城の上塀が崩壊したほか、市街のうち100軒以上が全半壊した。宮腰では液状化現象で泥水が噴出して、地割れ・地盤沈下が発生。越中では立山山中の山が崩落して常願寺川をせきとめるなど、多大な被害に見舞われ、35,000石余の田畑が荒地になった。それにくわえ同年5月から7月までの長雨で凶作が予想されたため、米の買占めが起き、米価が急騰。米が購入できなくなった貧民が大量に発生し、加賀・能登・越中といった藩内全土の都市で、広範囲に打ちこわしが発生することとなった。これらの騒動は俗に「安政大一揆」と呼ばれるが、実際には全藩的な米騒動に近い(維新後の1890年・1897年・1918年にも越中では米騒動が発生している)。 万延元年(1860年)11月には横山隆章が死去し、黒羽織党の藩士が復帰する余地が生じた。
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