極寒での越冬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 17:13 UTC 版)
一方で蝦夷地の本格的な寒さが忍び寄り、8月28日には初雪が降った。10月(太陽暦11月)には最初の病人が発生する中、10月26日には松前からの早飛脚が医学館製の薬「加味平胃散」と酒などを差し入れた。 米や味噌など食料の備蓄は豊富だったものの、11月14日(太陽暦12月12日)以降には「北国」の津軽でも経験したことの無いような寒さに苛まれた。陣屋は警備を最優先して海を臨む立地に建設されていたため北からの季節風をまともに浴び、そこで暮らす藩士たちは綿入れを2枚重ねにして何とか耐え忍ぶ状況だった。越冬用の薪は急遽伐採した生木だったため、燃やせば大量の煙を発して目を蝕む。そのうえ、この時点で海は季節はずれの流氷に閉ざされていた。新鮮な魚を得ることも不可能なうえ、氷の原を渡ってロシアが攻めてくる恐怖が藩士を襲う。保存食のみで生鮮な食材のない食生活はビタミンを欠き、脚気による水腫を患う者が続出する。11月25日(太陽暦12月23日)には最初の病人だった富蔵が死亡し、以降は26日、29日、12月1日、5日と数日に1人の割合で病死者が続出、12月8日には4人が死亡した。 以降も病死者は絶えず、炊事、水汲み、薪集めなど日常の雑事をこなす下役も病に伏せる中、症状の軽いものは身分の別なく雑事や病人の看病に奔走するようになる。そんな中でも、12月28日にはトドマツの枝とクマザサを組み合わせて松飾を作り、新年の準備をしている。 年明けて文化5年(1808年)、年始の礼を交わす中でも死者は続き、元日から4日までに5人が死亡。5日から29日までに22人が死亡。以降も死者は絶えず、3月2日には計6人が死亡した。宗谷での養生願いが聞き届けられ、シャリを離れる者も少数ながらいたが、みな道中の網走や常呂で息絶えている。 4月2日(太陽暦4月27日)になって海を閉ざしていた流氷がようやく去り、生存者たちは船便が通う状況になったことに希望を繋ぐ。本格的な春の訪れとともに外部から早飛脚なども訪れ、生存者たちは次々と出立を始めた。6月には袷で過ごせるような暖かさとなった。そして閏6月13日(太陽暦8月4日)に死亡した足軽目付・桜庭又吉を最後の死者とする。 閏6月24日、シャリ陣屋の沖に450石積みの交代船・千歳丸が現れる。陣屋に残っていた者は米や武器類をまとめて撤収の仕度をするとともに、死者72人の氏名をすべて記したヒノキ製の墓標を建立した。
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