桜並木の逸話とは? わかりやすく解説

桜並木の逸話

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 07:05 UTC 版)

進藤一馬」の記事における「桜並木の逸話」の解説

1984年昭和59年早春道路拡張工事のため、南区桧原沿道の9本の桜並木伐採されることになった近く住んでいた福岡相互銀行現・西日本シティ銀行)の行員土居善胤はこれを惜しみ、「花守進藤市長殿 花あわれ せめては あと二旬 ついの開花をゆるし給え」と和歌詠んで桜の木掲示した。 これを偶然見かけた、当時九州電力社長に就任したばかりの川合辰雄が、部下である同社広報担当大島淳司にこれを伝え大島旧知の仲だった西日本新聞記者松永生にけしかけ松永取材したことで、この桧原和歌一件が、1984年3月23日付の同紙夕刊写真入り記事として掲載された。 進藤記事読んだ時の心境西日本新聞寄せた回顧録次のように語っている。 「行政進め拡幅工事公益性知りつつも、せっかつツボミふくらませている老樹に。せめてつい(最後)の開花許してくれと訴えてます。風流心とはまさにこのことです。」 だが、風流だと思う一方で、 「たとえ市長である私がどう思っても、個人として私情ではどうにもならないことが行政には多々ある。だから、桜の木切り倒されるかもしれない…」 と複雑な心境吐露していた。 進藤現地訪れると、報道受けて知った多く人々集まり惜し色紙短冊桧原下げていた。 福岡市道路計画課長石井聖治(当時)は、土居の歌に関する新聞報道を受け、一時的に工事中止し協議重ねていた。その石井のもとに進藤工事の進捗確認しにやって来た。期日までには工事終わらせる報告した石井に、進藤は「できればを残すことはできんやろか?」と尋ねた結果桧原ではなく反対側の池を埋め立て道路拡幅することで、桧原守り抜くことができた。福岡市民たちは進藤を「花守市長」と呼んだ。この話は「リーダーズ・ダイジェスト」誌や小学校道徳副読本にも掲載されていた。この現存し周囲桧原公園として整備されている。公園には石碑立てられ土居和歌並んで、「桜花惜し大和心うるわしや とわに匂わん 花の心は 香瑞麻」という句が刻まれている。香瑞麻は「かずま」、進藤雅号で、多く色紙短冊を目にした進藤が、土居の歌への返歌として木に掲げたであった市長として政令指定都市となった福岡市大都市としての骨格整え基盤づくりの時期担当したが、市長として実務はほとんど部下任せていた。

※この「桜並木の逸話」の解説は、「進藤一馬」の解説の一部です。
「桜並木の逸話」を含む「進藤一馬」の記事については、「進藤一馬」の概要を参照ください。

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