桜並木の逸話
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1984年(昭和59年)早春、道路拡張工事のため、南区桧原の沿道の9本の桜並木が伐採されることになった。近くに住んでいた福岡相互銀行(現・西日本シティ銀行)の行員・土居善胤はこれを惜しみ、「花守り 進藤市長殿 花あわれ せめては あと二旬 ついの開花をゆるし給え」と和歌を詠んで桜の木に掲示した。 これを偶然見かけた、当時九州電力の社長に就任したばかりの川合辰雄が、部下である同社の広報担当・大島淳司にこれを伝え、大島が旧知の仲だった西日本新聞の記者・松永年生にけしかけ、松永が取材したことで、この桧原桜と和歌の一件が、1984年3月23日付の同紙夕刊に写真入り記事として掲載された。 進藤は記事を読んだ時の心境を西日本新聞に寄せた回顧録で次のように語っている。 「行政が進める拡幅工事の公益性は知りつつも、せっかつツボミをふくらませている桜の老樹に。せめてつい(最後)の開花を許してくれと訴えています。風流心とはまさにこのことです。」 だが、風流だと思う一方で、 「たとえ市長である私がどう思っても、個人としての私情ではどうにもならないことが行政には多々ある。だから、桜の木は切り倒されるかもしれない…」 と複雑な心境を吐露していた。 進藤が現地を訪れると、報道を受けて知った多くの人々が集まり、桜を惜しむ色紙や短冊を桧原桜に下げていた。 福岡市道路計画課長・石井聖治(当時)は、土居の歌に関する新聞報道を受け、一時的に工事を中止し、協議を重ねていた。その石井のもとに進藤が工事の進捗を確認しにやって来た。期日までには工事は終わらせると報告した石井に、進藤は「できれば桜を残すことはできんやろか?」と尋ねた。結果、桧原桜側ではなく反対側の池を埋め立てて道路を拡幅することで、桧原桜を守り抜くことができた。福岡市民たちは進藤を「花守り市長」と呼んだ。この話は「リーダーズ・ダイジェスト」誌や小学校の道徳副読本にも掲載されていた。この桜は現存し、周囲は桧原桜公園として整備されている。公園には石碑が立てられ、土居の和歌と並んで、「桜花惜しむ 大和心のうるわしや とわに匂わん 花の心は 香瑞麻」という句が刻まれている。香瑞麻は「かずま」、進藤の雅号で、多くの色紙や短冊を目にした進藤が、土居の歌への返歌として木に掲げた句であった。 市長として、政令指定都市となった福岡市が大都市としての骨格を整える基盤づくりの時期を担当したが、市長としての実務はほとんど部下に任せていた。
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