核開発12年計画
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1955年1月には広西省でウラン鉱床が確認され、1月14日には毛沢東はウラン鉱石の実物を見て、「我が国の自力による原爆製造のできるだけ早い実現」を乾杯したという。翌日の1月15日の中国共産党中央委員会会合で、毛沢東は核兵器とそれに関連するミサイルを含めた、中国独自の戦略兵器の開発を宣言した。中国核兵器計画はコードネーム「02」として扱われた。 「 我们不但要有更多的飞机大炮、而且还要有原子弹。在今天这个世界上、我们要不受人家欺侮、就不能没有这个东西。 "我々は航空機や大砲だけでなく、原子力爆弾も必要としている。今日のこの世界では、他国からの虐げを回避する手段は、それ(暗に"核"を指す)無くして有り得ない。" 」 1955年4月にはソ連からサイクロトロンと原子炉を中国のために建設することに同意。毛沢東はこの年に「核開発12年計画」を策定し、またフィンランド大使に「アメリカの原爆では中国人を一掃するには数が足りないだろう。たとえアメリカの原爆が中国に落とされても、たとえ地球に大穴が開いても、あるいは地球が粉々に吹き飛ばされたとしても、太陽系にとっては大きなことかもしれないが、宇宙全体から見ればとるにたらない」と発言している。 1955年11月22日、ソ連が初の水爆実験RDS-37および核の平和利用実験を行った。 核開発12年計画と合わせて翌1956年1月には農業12年計画を立案したが、その実現不可能性に対して周恩来が反対し、計画を修正した。1956年2月24日にはフルシチョフによるスターリン批判が始まっており、中国政府幹部はソ連の失敗を教訓化するよう毛沢東に進言した。スターリン批判はハンガリー動乱を引き起こす。 1956年10月8日、赤狩りによってアメリカから国外退去となった銭学森を所長として国防部第5研究所(現:中国運載火箭技術研究院)が設立された。研究所は中国初の弾道ミサイルの開発を始め、計画は1956年3月1日に最初の「中国航空宇宙の12か年計画」として承認された。
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