校歌・応援歌・凱旋歌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 02:30 UTC 版)
「群馬県立前橋高等学校」の記事における「校歌・応援歌・凱旋歌」の解説
校歌は1917年(大正7年)に、生徒の発議によって作られることとなり、初め生徒から歌詞を募ったものの秀作はなく、かつて前橋中学校に在籍し、当時は小説の執筆や民謡の作詞等で名を知られた平井晩村に依頼することとなった。平井晩村は八方から依頼されている原稿をさしおいて作詞に専念し、作曲は平井晩村の紹介で、大須賀乙字を通して依頼された東京音楽学校の中田章(唱歌「早春賦」の作曲で知られる。「夏の思い出」の作曲で知られる中田喜直の父)の手で為された。 校歌も校章と同じく戦後の学制改革の際に4番(最終章)の「われ等が前橋中学校」の部分が「われ等が前橋高等学校」と改められた。 応援歌と凱旋歌は、1918年(大正8年)に野球部が甲子園出場を賭けて北関東大会に出場し、決勝まで進出した際、茨城県竜ヶ崎中学校(現在の茨城県立竜ヶ崎第一高等学校)との決勝戦が行われる龍ケ崎まで後輩の応援にやって来ていた前橋中学校野球部OBの屋代周二(当時東京帝国大学在学中)が、やはり応援に来ていた当時の桜田広利校長の依頼で一夜のうちに作詞したものである。メロディーは当時旧制高等学校や大学の応援団などで歌われていた応援歌等のメロディーを即席で拝借したものであると、「前橋高校百三年史」に寄せられた屋代の文にある。(この時の決勝戦では敗退して甲子園出場はならなかった)応援歌と凱旋歌の歌詞には「枚を銜みて」「優曇華」「鎧袖一触」「百錬」「降魔」「あはれ燕雀」(応援歌)「益荒男」「蛟龍遂に雨を得て」(凱旋歌)などの、和漢の古典を出典とする語が多用されているのも特徴である。なお、応援歌と凱旋歌は、制定以降長らく口承によって受け継がれてきたが、1978年(昭和53年)に硬式野球部が春の選抜高等学校野球大会に初出場した際に、曲は当時の音楽科教師であった永長信一によって採譜され、歌詞は鎧塚弘久ら、当時の国語科教師によって確定された。(「前橋高等学校百三年史」による) 校歌は1番より4番まであるが、野球応援の時などは1番と4番のみ歌われることが多い。式典時は全番歌われる。前中・前高同窓会総会の際は、4番の末尾の1回目は「我らが前橋中学校」、2回目は「我らが前橋高等学校」と歌われるのが習わしとなっている。新入生は、入学直後に応援団による校歌指導という伝統行事があり、校歌と応援歌、凱旋歌を覚える。当校のWEBページにて校歌(1番のみ)と応援歌、凱旋歌を試聴することができる。
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