林家正蔵の名跡
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「林家三平 (初代)」の記事における「林家正蔵の名跡」の解説
父正蔵没後6か月後の1950年4月22日、正蔵の名跡を貸して欲しいという騒動が起きた。 5代目柳家小さんの名跡をめぐり、兄弟子5代目蝶花楼馬楽(後の林家彦六)と弟弟子9代目柳家小三治が争い、馬楽が負けたからである。 小さんの名跡争いで馬楽が負けた原因は、小三治が三平の大師匠で実力者8代目桂文楽の預かり弟子であり強力な後援を受けていたことと、元々馬楽が三遊派から柳派に移籍した「外様」であったことが影響している。 当然、馬楽は不満である。4代目柳家小さんは4代目馬楽襲名後に4代目小さんを襲名した経緯から、馬楽を名乗った後は小さんになるのが通例であったが、襲名があっても香盤は変わらないので、“小さん”の名前が馬楽より格下となる「ねじれ現象」を生じてしまう。これでは差し障りがあった。 小三治には4代目小さん未亡人や文楽が後盾になっており、また折角の好機でもあるため馬楽に譲ろうとはせず、むしろ馬楽に自分より格上(又は同等)の名跡を襲名するように促す。 一方馬楽は空席の名跡を探していた時、怪談噺を得意とする「正蔵」が丁度空いている、と周囲に促され、急遽「一代限り」の約束で父同様5代目左楽を仲立ちに海老名家から正蔵の名跡を借り、8代目林家正蔵を襲名した。 父正蔵の一周忌すら済んでいないこの時期に、関係の薄い馬楽に名跡を譲らなければならなかったことは、当時の三平の境遇をよく表している。名跡は貸与しただけであり、勿論馬楽が三平の後見となってくれるというようなことは一切なかった。一方、8代目正蔵側から見れば、7代目正蔵襲名に至る経緯を知っているために、この名跡を「貸与」とする扱いには釈然としなかったらしい(「7代目林家正蔵」参照)。 なお、三平が正蔵を名乗ることは遂に叶わず、8代目正蔵よりも先に死去してしまう。三平没後、8代目正蔵は自ら「正蔵」の名跡を海老名家に返上し、「彦六」に改名した。 ここまでの経緯は新宿末廣亭元席亭・北村銀太郎の説明によるものであるが、8代目正蔵よりも小さんを可愛がった北村の証言だけに、幾分かは割り引いて聞く必要もあろう。 実際、8代目正蔵は自伝『正蔵一代』で、生前三平に正蔵を返上しようとしたところ、三平から「師匠の宜しい(亡くなる)まで(正蔵を)お名乗り下さい」と説得されたことを明かしている。また、8代目正蔵は、自らの弟子の真打昇進時には、亭号を「林家」から他のものに変更させ、三平への配慮を見せていた。三平生存中に亭号を変更しなかった8代目正蔵の弟子に3番弟子林家枝二がいるが、その後に7代目春風亭栄枝を襲名して他の亭号に変更している。なお、4番弟子初代林家木久蔵(現:林家木久扇)は、三平に気に入られていたことからその肝煎りもあって亭号を変えることはなかった。このため、現在林家は二系統あるものの、木久扇は病に倒れた三平の惣領弟子こん平の代理として、9代目正蔵・2代目三平の後見になっている。
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