枋橋(板橋)進出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 08:45 UTC 版)
道光27年(1847年)、林家は小作徴税の拠点として弼益館(ひつえきかん、ビーイーグァン、現在は林家の駐車場)を枋橋(現・板橋区)に設置した。その後ここが板橋における林家の邸宅となる。 林平候には林国棟、林国仁、林国華(中国語版)、林国英、林国芳(中国語版)の5子がおり、それぞれ飲記、水記、本記、思記、源記の屋号(商号)を持っていた。屋号は「飲水本思源(水を飲むときにその水源を思う)」という熟語を意味し、その省略形である林本源が総屋号とされている。 5子のうち国華と国芳の2人は最も聡明だったことから、二代目として家業を継承し発展させる役割を担った(p12)。分類械闘はこの時点で収束していなかった。漳州籍の枋橋住民からの要請もあり、兄弟は咸豊元年(1851年)に弼益館の傍に自らの住居「三落大厝」(さんらくだいせき)を建て、咸豊3年に落成すると林家に編入した。咸豊5年には泉州人の暴動を抑えるべく枋橋の築砦に着手。それから短期間のうちに林家は大厝裏手に園林を備えた庭園の造成にも着手し。呂西村、謝琯樵らの文人を西席(家庭教師)として招聘、台湾北部での文化の息吹となった。 三代目の林維源、林維讓は先代2代の発展を受け継ぎ僅か三代で台湾屈指の富豪となった。1862年に戴潮春の乱の平定に協力し頭角を現し(p12)、1888年には三落大厝の南隣に別邸の「五落大厝」(ごらくだいせき)を、1893年に花園も竣工している。維源は清仏戦争後に台湾巡撫だった劉銘伝の原住民居住地開発や地方産業化、撫育・開墾制度推進に協力した。現在観光客が観覧している林本源園邸は当時の林家一族の急成長と覇権を象徴している。膨大な財産を擁した林本源一族は当地居住漳州人の領袖となり、三落大厝は建築時に強化された防衛力から、平時にも数百の兵力で警戒態勢を維持する漳州人の主要な指揮所として日本統治時代初期まで機能した。
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