松永久秀との争いとは? わかりやすく解説

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松永久秀との争い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 18:06 UTC 版)

三好宗渭」の記事における「松永久秀との争い」の解説

しかし、次第畿内主導権をめぐり久秀と三人衆との関係は悪化11月16日三人衆河内飯盛山城を襲撃し、義継の身柄河内高屋城に移すと、義継に久秀との断交約束させ、義輝従弟阿波公方足利義栄14代将軍に擁立し三好氏本拠地である阿波篠原長房協力を得ることにも成功した12月下旬には義栄に御教書発行させ、軍を久秀の本拠地大和進駐させ、筒井順慶らを味方につけ久秀を脅かした一方の久秀は紀伊逃れていた畠山高政安見宗房らを扇動して高屋城襲撃させ、永禄9年1566年2月河内において畠山軍は三人衆決戦及んだが、三人衆2月17日の上戦いで畠山軍に大勝、久秀は大和退却する4月三人衆は再び大和侵攻したが、久秀は城を脱出し堺において味方の軍を結集して、再び高屋城脅かした。そのため三人衆は義継の親征仰ぎ摂津池田勝正淡路安宅信康援軍得て久秀の3倍の軍で堺に迫ったため、5月30日に久秀は戦わずして逃亡した。この時、阿波篠原長房足利義栄擁し大軍率いて兵庫上陸すると、三人衆はようやく長慶の喪を発表して葬儀実行し、長房の援軍得て三人衆畿内反対勢力をほぼ一掃することに成功した永禄9年8月23日1566年)には義栄を摂津越水城迎え主君として遇したが、これが義継の不興を買い、永禄10年1567年2月に義継は出奔、久秀を頼って三人衆敵対するようになり、三好康長らも三人衆から離反したため、久秀は復権三好家再び分裂抗争することになった大和での久秀の居城多聞山城をめぐる一連の戦闘東大寺の大仏炎上してしまう事件がおきたのもこの時期戦乱においてである(東大寺大仏殿の戦い)。しかし戦局三人衆が有利で、東大寺での敗戦後から立ち直り久秀方の信貴山城落とし多聞山城包囲した永禄11年1568年9月織田信長足利義昭擁立して上洛してくると、義継・久秀らが織田氏接近する一方で三人衆信長との敵対の道を選んだが、9月29日勝竜寺城淀城敗れるとほぼ総崩れとなり、宗渭も城主であった山城木津城から退いた以後石山本願寺信長不仲となった義昭らを巻き込み信長との抗争激化したが、畿内での兵乱元亀兵乱)が信長優位決着すると宗渭の動向不明となった死去した時期について、今谷明消息不明になり没年すら定かではないとしている。一方で天野忠幸は、『二条宴乗記』における永禄12年1569年5月26日記事から5月3日阿波死去した指摘している。家督は弟の為三継いだ三好義継の妹は義継を裏切った若江三人衆一人多羅尾綱知の妻となっており、その子・孫九郎三好宗渭養育されたと伝えられている。生勝の名は宗渭の名(政生)に由来する考えられる。孫九郎三好生勝名乗って織田信長仕え、義継の名跡継ぎ河内国で5490石を与えられ石山本願寺との戦いに参陣した生勝豊臣秀吉黒田長政浅野長晟仕えてその子孫広島藩藩士として明治維新迎えた

※この「松永久秀との争い」の解説は、「三好宗渭」の解説の一部です。
「松永久秀との争い」を含む「三好宗渭」の記事については、「三好宗渭」の概要を参照ください。

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