松永・三好の兵火による焼失とは? わかりやすく解説

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松永・三好の兵火による焼失

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 05:06 UTC 版)

東大寺盧舎那仏像」の記事における「松永・三好の兵火による焼失」の解説

詳細は「東大寺大仏殿の戦い」を参照 大仏大仏殿2回目焼失永禄10年1567年)、松永久秀と、松永対立関係にあった東大寺にあえて布陣し三好三人衆軍の戦い最中焼失した。この火災の原因について、大仏殿狙った攻撃である、夜襲の際の失火である、三好三人衆軍の陣中にいたキリシタンによる放火である、との諸説あり定かではない前回焼失の際とは時代背景違い復興事業はなかなか進まなかった。豊臣秀吉奈良の大仏代わる新たな大仏造立計画し京都方広寺大仏(京の大仏)が造営されたが、東大寺大仏再建へ着手は行わなかった。なお京大仏地震等の被害のため何度再建されているが、寛政10年(1798年)に落雷焼失するまでは、規模(大仏の高さ、大仏殿面積と高さ)で、現在の東大寺大仏大仏殿上回っていた。 東大寺大仏殿は仮堂で復興したが、それも慶長15年1610年)に大風倒壊した大仏頭部銅板仮復旧されたままで、雨ざらしの状態で数十年が経過した貞享元年1685年)、公慶江戸幕府から大仏再興のための勧進資金集め)の許可得て、ようやく再興始まった。こうして元禄4年1691年完成し、翌元禄5年1692年)に開眼供養された大仏と、宝永6年1709年)に落慶した大仏殿現存する大仏殿創建当時比較して4分の3規模になっている前述のように宝永6年1709年)から寛政10年(1798年)までは、奈良(東大寺)と京都(方広寺)に、大仏・大仏殿が双立していたが、方広寺大仏寛政10年(1798年)に落雷焼失した。なお京都の東福寺にも明治初頭まで大仏安置されていた。巨大な仏手」が現在残存しているが(現存部分長さ2m)、これは大仏左手部分のみが、明治火災の際に救い出されたものとされている。一説には東福寺大仏の高さは5丈(約15m)ともいわれ、こちらも東大寺大仏の高さを上回っていたかもしれない

※この「松永・三好の兵火による焼失」の解説は、「東大寺盧舎那仏像」の解説の一部です。
「松永・三好の兵火による焼失」を含む「東大寺盧舎那仏像」の記事については、「東大寺盧舎那仏像」の概要を参照ください。

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