松永・三好の兵火による焼失
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「東大寺盧舎那仏像」の記事における「松永・三好の兵火による焼失」の解説
詳細は「東大寺大仏殿の戦い」を参照 大仏と大仏殿の2回目の焼失は永禄10年(1567年)、松永久秀と、松永と対立関係にあった東大寺にあえて布陣した三好三人衆軍の戦いの最中に焼失した。この火災の原因について、大仏殿を狙った攻撃である、夜襲の際の失火である、三好三人衆軍の陣中にいたキリシタンによる放火である、との諸説あり定かではない。 前回の焼失の際とは時代背景も違い、復興事業はなかなか進まなかった。豊臣秀吉は奈良の大仏に代わる、新たな大仏の造立を計画し、京都に方広寺大仏(京の大仏)が造営されたが、東大寺大仏再建への着手は行わなかった。なお京の大仏は地震等の被害のため何度か再建されているが、寛政10年(1798年)に落雷で焼失するまでは、規模(大仏の高さ、大仏殿の面積と高さ)で、現在の東大寺大仏・大仏殿を上回っていた。 東大寺大仏殿は仮堂で復興したが、それも慶長15年(1610年)に大風で倒壊した。大仏の頭部は銅板で仮復旧されたままで、雨ざらしの状態で数十年が経過した。 貞享元年(1685年)、公慶は江戸幕府から大仏再興のための勧進(資金集め)の許可を得て、ようやく再興が始まった。こうして元禄4年(1691年)完成し、翌元禄5年(1692年)に開眼供養された大仏と、宝永6年(1709年)に落慶した大仏殿が現存する。大仏殿は創建当時と比較して約4分の3の規模になっている。 前述のように宝永6年(1709年)から寛政10年(1798年)までは、奈良(東大寺)と京都(方広寺)に、大仏・大仏殿が双立していたが、方広寺大仏は寛政10年(1798年)に落雷で焼失した。なお京都の東福寺にも明治初頭まで大仏が安置されていた。巨大な「仏手」が現在残存しているが(現存部分の長さ2m)、これは大仏の左手部分のみが、明治の火災の際に救い出されたものとされている。一説には東福寺大仏の高さは5丈(約15m)ともいわれ、こちらも東大寺大仏の高さを上回っていたかもしれない。
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